それは自前の情報か。

「風力発電反対」と検索して見ると、私のページはもうどこにもない。すっかりニセモノの地域対策欄に覆われてしまっている。かつては「風力発電被害」と検索したら、風力コマーシャルばかりになっていた。不思議なことに、そこには流行りの土砂崩れの写真は一枚もないのだった。各地のエセ反対デモでは、「土砂崩れが心配なんだ」、「風力被害とは土砂災害だ」と叫んでいたからね。その彼らが証拠写真を一枚も提示しないとは可笑しなことだと思わないか。

しかし参加者は風力側の手先ばかりだからね。都合の悪い矛盾、真実には関知しないんだ。「我々は土砂災害なんだよ」と言って吐き捨てられるからな。環境ゴロ。まさに雇われて動員された環境運動会だよ。実際は、もう風車病に苦しむ被害者が大勢いる。それを知りながら低周波音被害を否定して、弾圧の限りを尽くすのだった。もともと悪党たちだからね、弱い者いじめが面白い。水俣や福島で見たでしょ。被害者の哀れを見たでしょ。

それを嫌悪、差別、笑いにしてしまう。思いやりとか優しさなんて感覚はどこにもない。由良町での風力被害は、「黙殺の音」とか他のサイトでも有名になっている。誰か助けよう、なんて言ったか。誰もいなかったのだよ。ピエロにして喜んでいた。アホよら、とな。風力発電反対と、風力発電被害の検索結果を見比べると、受け売りの言葉、出来過ぎの美文名文が怪しく輝いていることが分かる。専門家がいる。これは私に対してもよく言われる暴言でな、「専門家が言っているんや」と怒鳴りつけられるのだ。

私が低周波音の被害で苦しんでいると言っているのに、【オマエなんかが何を言う】と吐き捨てられる。土砂崩れ男の歓喜が、狂気が舞い上がる。私に対する嫌悪感がそれほどに嬉しいらしいのだ。それが美文名文と共に、各地のエセ反対運動の中身になっている。私はそれらの人のことは何一つ知らないからね。彼らも私のことは直接に知らないだろう。その敵意の理由は何だろうか。私は土木技術者でね、『環境』という分野があって、ビオトープ、ウォーターフロント、アメニティ、それぞれに幻想を見せる言葉のテクニックを垣間見てきた。

ダムとか火力発電所の周囲は樹木で覆っていたり、公園になっているでしょ。カモフラージュ、偽装なんだよ。まやかしと言ってよい。アセス、環境影響事前評価、事業者が書く茶番の報告書も同じだよ。各地の環境運動家は、こんなものに根拠を置くか。アセスをしっかりやってください、とかね。笑えるじゃないか。問題は、彼らは被害者のいることを分かっていながら風力被害を否定して弾圧を喜んでいる点にある。だから低周波音と言わずに、土砂崩れが心配と繰り返すのだ。

マニュアル通りなんだよ。戦争と平和。今、ウクライナとイスラエルで烈しくやっているから戦争の説明はしない。平和な日本で、なんでまた被害に苦しむ人を弾圧して殺して喜んでいるのか。それも由良町のような小さな閉された町の、お互いに仲良くやって来た古い人々がだよ、指摘された被害者を生贄にして喜び笑いあう。人間心理として、常に必要な政治課題なのかと思わないか。それほどに被害を訴えるものが憎いのかい。平和の代償よな。徳川の江戸時代、260年間には、たくさんの罪人が処刑されたという。

死体の再利用として、刀の切れ味を証明する試し切りに使われた。毎日、何人もの死体が用意される。三胴裁断、三人重ねて切り裂くのだ。そう書いてあるし、作法も記録されている。そういう処刑を見せモノにしていたというからね。平和には、いかに犠牲者が必要であることか。明治になっても獄門、さらし首があったというではないか。まだ150年も経ってはいない。曽祖父の時代だよ。戦争と平和の間には、こんなバランス感覚があったと感じている。

そりゃぁ原爆や爆撃は恐ろしいよ。それと同じ感覚で、日本人が、隣の日本人をリンチにかけて殺して喜んでいる。その苦しみようがオカシイという。「ワシらは面白うてならんのや」と絶叫していたからね。イヤハヤ、私の29回に及ぶ由良町役場での訴えは、人々の敵意を掻き立てるには十分な情報を与えていたのだ。すっかり『民衆の敵』でしょ。だがな、誰かが言わなくてはならんだろう。今、日本中で風力被害者が苦しみ狂い死んでいる。なんで誰も何も言わない。それではそのアホ役を私がやってやろう。

風力発電が発する有害な低周波を測ってみろ。各地の大学や高専、県庁の環境課に測定器が配備されている。使ったらアカンとされている。なぜか、その理由を聞いたらよい。水俣で水銀汚染を測ったらアカンのと同じ理由だよ。混乱するじゃないか。【被害はない】本当かい。真実の扉をこじ開けようぜい。