パンデミックpandemic

集団感染と言いながら、コロナに感染した人はそれほど多くはないような気がしている。和歌山の由良町は人口5千人の小さな田舎町だから、55年前に経験した赤痢の千人の患者に比べれば、10人ほどのコレラ患者なんて「ない」に等しい。もちろん周囲の町で聞いても、コロナ禍で亡くなったとか言う話は聞かない。

ほとんどの人はワクチンを打っていて、私のように、打たずじまいの人は珍しいだろう。これだけで私がいかに世間ズレしているかと人々は笑いあう。原因の一つは、我家を訪れたジャーナリストが強烈にワクチン被害を訴えていたからだ。私はコロナワクチンを打つつもりでいた。それでしばらく見合わせる、様子を見ようかと思いながら今日に至った。

専業農家だからね、一人暮らしで毎日ミカン畑で生活しているようなもんよ。誰と話し合うこともないし、近所のスーパーで買い物するぐらいの社会生活だ。田舎の百姓は皆、こんなものだろう。杞憂。テレビでやっていた有名人の死亡なんて和歌山ではなかった。買い物のときはマスクを付けている。マスク効果はあるんだろうかね。

イワシの頭、くらいの効き目だと思うけどな。マスクを付けると心理面で影響するという。マスカレード。怪傑ゾロ。変身するんだろうか。たしかに心理的な距離、ディスタンスがある。心の内面を隠している気がする。感情を露わにするよりも、なんか安全感があるわな。私は世間との付き合いはないから、とくにどうということもないけどな。

子供たちには社会性とか、感情の伝達に影響はあるだろう。それよりも、もう一つのパンデミックに気が付かないか。地球温暖化。地球が沸騰しているとまで言われている。今朝の産経記事では、COP28として、いつもの再エネ祭りが繰り広げられる。産経は原発と再エネの広告新聞だからね。眉に唾つけて見ているよ。ウソつけよな、とな。

すっかり広告ビジネスに仕上がっているやないか。記事に書かれている再エネ事業の目的は何だろう。風力発電は「扇風機」と言われていたけど、今はそんな言葉は消えている。環境運動のきらびやかな言葉、キーワードは、今やマントラになっている。自然エネルギーなんて、もう意味もないのに、本気で気候が変えられると判断しているんだろうかね。

山々の樹木を剥ぎ取り、太陽パネルを敷き並べる。どんな言葉を使っても自然破壊だよ。真逆の開発事業に、莫大な税金がつぎ込まれる。地球温暖化推進事業だ。土砂崩れが心配です、という。受け売りのスローガンを人々は繰り返す。スパイ工作員よりも、思想感染した大衆、民衆の方が始末が悪い。

再エネ賦課金など、しょせんは人々の税金でしかないのに、それがどんな意味を持っているのかさえ分からないのだ。年間1万円程度の使うことのない電気代を支払う。蓄電池だってか? 技術開発が重要です、だってか。政治はビジネスと一体化して、カネ儲けのダシでしかないことが分かっている。再エネ議連とか言う利権構造があるらしい。

「風力発電を建てないともったいないんやで」と言われているのだ。これだけ被害が明らかになっても、日本人には再エネが重要な政策だと思い込んでいる。パンデミックじゃないか。思想破壊、社会の破壊、思考のなさよ。日本人ってさ、こんなにダメだったのかと驚かないか。世界では、各地で風力反対運動が引き起こされている。

この事実を日本で紹介しても、誰も受け付けなくなっている。理由も何も、すっかり集団感染して頭がやられているのだ。まるで風力発電の強烈な低周波音にやられたみたいにな。人間として、何のために生きるのかと問う気力さえ失われているのだ。家畜化。自己家畜化、動物化といわれる。日本だけ、なんで? と思わないか。

由良町では、風力発電の低周波音で苦しみ狂い死んでいった人を笑いものにして喜んでいる。「アホよら」というのだ。日本の各地で同じ被害者の弾圧が行われている。エセ反対運動を見れば、説明の必要はあるまい。ただ、誰もそのインチキに気が付かないし理解が出来なくなっている。風車病で苦しんでいるのに、なんで「土砂崩れが心配」なんだよ。

この弾圧、虐待に人々は可笑しみを感じるらしいのだ。人の不幸が面白いからね。被害者でさえ、他の被害者が苦しみながら死ぬと嬉しそうに笑っている。地獄の風景だと思わないか。エライ時代が来たなと思っている。幕末の吉田松陰などには「禽獣に異ならず」と言って、人間は他の動物とは違うんだ、と言い切っている。人間は学ぶ必要がある。

そんなこと当たり前だろう。こんな新聞記事はペテンでしかない。騙されてはならんだろう。ワクチンなんか打たなくとも感染しないものはいる。健康に生きようやないか。精神の集団感染は、アホにされるだけやで。