鬼のように風力被害を笑うか。

h18年の事だから当時の伊豆半島の人ですら深刻な風力被害を覚えている人はいなくなっている。年月と言う恐ろしい現象を見る。この地域の独特な風土があるにせよ、風力被害者はすっかり跡形もなく消えていた。あの有名な被害調査報告書もな。汐見文隆医師の他にも、大学の卒論にしたり、フィールドワークというのか執拗に地域対策に絡んだ人がいた。私がよく使う環境運動家と言うセリフもこの時から始まる。

彼らはいったい何者か、降って湧いたような雑多な悪党が風力被害に群がっていたのだ。自然保護団体もいて、アセスメントと連携するだけじゃなくて風力の手先となって被害者の否定に活躍していたのだ。海外の自然保護団体との違いを見る。野鳥の被害でさえ否定する保護団体とは何なのか。さらに人間に対する健康被害でさえ否定する魂胆には、誰かが気が付いてもよさそうなもんだけどな。

結局のところ、由良町だけじゃなく、全国で「野鳥の会」などの団体は地域対策に深く関わっていた。彼らの組織的な論理があったんだろう。初めから名が挙がっているから、何もかも見通しながら、被害者がどうなろうと、醜い笑いを見せていた。狂気、カルトやな、とオウム教などの事件を思い出す。新しい風力被害地が見つかると、最初は皆真剣になったんではないか。それが大事件になり多くの被害者が声を上げ始めると、これまで培った地域支配のマニュアル通りに弾圧と笑い声が木霊する。

誰も抵抗できなかった。被害が分からないんじゃない。分かっているからこそ、少数❓の被害者を虐待して弄んで殺していたのだ。その先例として、水俣や福島の公害を書いてきた。世界的に有名でな、原因よりも被害システムが特殊だというんだよ。慰霊の碑とか、除染とか、対策しましたというんだから、それに対して「水俣病は終わっていない」と抗議しても始まらんわな。実に風力被害でも、今も当然のように被害者がいて苦しんでいる。

笑いものでしかないからね。差別の対象だよ。これが日本人には身に付いた習性となる。まるで強制収容所の囚人やな、と考える。「看守と囚人」の心理実験は有名で、一旦そうと決まると後戻りはない。被害に遭って死んだら反抗もないわな。それよりもそこに至る間には、いくらでも人間としての尊厳を言葉にできたはずなのに、それが出来ないのは日本人だけで、世界的に見ればとても情けない出来事の積み重ねだと書いてきた。

被害に遭っても負けずに抵抗して生きる。一般に被害者となるとロボットにされて薄っぺらい人になる。もうアカンのや、と感じる瞬間だ。人々はそれが面白い。風力発電の低周波音は強烈でな、誰が被害に遭うか分からないけど人間性を無くしてしまう。畑地区ではそれでも生きながらえている人がいる。生死を分けたものは何だったんだろうか。ふと、因果関係はないんや、と怒声が蘇る。悪党にこそ高笑いはふさわしい。

正体を露わにしてさぞや有頂天になっていることだろうて。その空気が由良町全体を覆っている。とても息苦しい。全国どこでもそうなんでしょ。由良町だけじゃないわな。被害地の役場に電話したら、どこでも判で押した言葉が返ってくる。これも体験した関係者は多いだろう。由良町役場だと1日に4件の問い合わせの電話があったという。この周辺地域だけではなく全国から疑問、怒りの電話だったと思う。

それを役場は「風力の問い合わせの電話は一件もありません」と言っている。さすがに私も笑ったよ。これほどまでに役人は転落する。当人も笑っている。面白いのだ。日本人にはこの笑いが分からない。これこそが水俣であり福島などの公害の原点、原理を成すものだと気が付いている。世界用語になるほど特殊な被害なんだよ。社会悪と言っては小さすぎる。いつしか日本人にだけ憑りついた社会病理だわな。

被害者だけでなく、それを取り巻く人々の闇の姿が露わになる。ワシらは面白うてならんのや、と私を笑いに来る。さすがやな、と感心する。風力発電の被害の顛末が、どうしても日本人には伝わらない。SNS、 twitterなどでは相変わらずお花畑が繰り返される。各地にあるエセ風力反対が面白い。とても楽しいと評判になっている。もともとが作り話だからね、レジャー感覚よ。それがお花畑の有様よ。

日本人は皆こんな低レベルでしかないんかい。チャンと全国の風力被害を伝えようやないか。世界では当たり前に抗議運等が行われている。