風車教は、人々の思考を操作する。

今朝の産経を見ていて、野鳥の風力被害に、またかいな、とため息をついた。原発と再エネの広告新聞だから、眉に唾つけて見ているけどね。長州新聞には洋上風力は津波に耐えるか、とある。どちらの記事も、あれもこれもと水で薄めて希釈する手法だ。被害の本質とはずいぶん離れているでしょ。「土砂崩れが心配」議論と同じやり方が見え見えやないか。言葉のすり替え、意識操作、人々の思考を管理するんや。彼らの目的がはっきりと見える。この問題もあるでしょ、とさ。

つまりな、風力発電にはこんなにして人々の意識操作をしなければ成り立たないウソの積み上げなのだ。とうに風力の物語は崩壊している。初めから詐欺なのは分かっている。それを無理やり「さらなる再エネの推進」と総理大臣が発破を掛ける。予算の消化がある。再エネ賦課金だけで「いくら」になるんだろうか。補助金もスゴイでしょ。政治は、そんなあふれ出る税金の山分け会議になっている。カネだよ。弾圧だ。権力志向とは、まさにカネと政治利権の確立になる。

由良町で引き起こされた被害者弾圧の酷さを見ただろう。谷口愛子さんの書き残した訴えや、録音を聞いた人もいるんでしょ。直接にその声を聞いて「ワッ凄い」と思ったでしょ。それを人々は「あの人はウソをついている」と言って笑ったのだ。私も風力被害を訴えて来た。コテンパンの苛め弾圧の嵐よ。なぜや❓ それがこのページを書く原動力になっている。人々の悪意、人の不幸が面白い、上に対する媚び諂い、役場はそんなに偉いのか。

選挙をしたら、私なんかは総スカンで落選する。人々の本当の考え方が明白になって示される。大声で叫ばれるからね、聞き間違いはない。「アホよら」と言って、人々はとても幸せそうだ。海外の風力反対デモで見るように、何でこうまで真逆の結果になるんだろうかね。それが面白いし人々は言う、「一回言うたら、もうええんと違うか」、「キチガイのように言う、アホよら」と笑いものよ。そんなふうにして、たくさんの風力被害者たちは被害を否定されて死んでいった。

直接に暴力を振るわれた人もいたと聞く。何でもアリのやりっぱなしに、人々のうっぷん晴らしは爆発する。風車、様様よ。清々したよ。ディストピア。彼らを支配するシステムの可笑しさにタクトを振っている奴がいる。dsディープステート、闇の政府と言うつもりはない。現実の人々の選択だ。究極、彼らが何を選び取るかと言えば、「関係ない」と言う無関心だ。これが日本の民主主義の根幹をなしている。東北ゃ北海道の風力発電が林立する地域で暮らす人々を見たら分かるでしょ。

それと添付記事を同時に見れば、彼らがいかに世界の風力被害とはかけ離れた家畜になっているかもな。間違っても人の気高さとか、高潔さとか、尊厳なんてないわな。巷でよく聞く「私たちは風力発電に反対ではありません」と言うセリフに、オマエはどう感じるだろうか。私なら【クソ野郎】と心の中で罵っている。とくに被害者がそういうのを見ると、人間性を無くしたゾンビとしか思えない。そう言って死んだ被害者を何人か見ている。

とても私と同じ人間、同類のホモサピエンスだとは思えないのだ。精神構造が違う。奴隷根性。ハリウッド映画で、一番の嫌われ役がこの言葉を使う決まりになっている。人間の誇り、矜持と、奴隷の対局よ。ハリウッド映画は分かりやすいでしょ。日本人はなんで風力発電の虚構を信じ切っているんだろうか。低周波音の被害、風車病、因果関係を言うまでもなく、現実に被害者がいて苦しみを訴えている。笑い話じゃない。それを弾圧政策にして喜んでいるんだからね。

どこかに歪みが出て来るわな。初めから真実は知られていた。日本人は簡単に心理コントロールされて思考を奪われたようになり、反論する者は誰もいなくなっていた。被害者をタブーにして弾圧するばかりよ。由良町では、とくにその苛めが酷かった。もともとそんな傾向があったから、当然の差別だと人々は判断したんだろうか。私も地域の一員としてこれまで暮らしてきたからね。多少は彼らの特異な差別風土は理解しているつもりだ。

その中で前記の谷口さんだけが文に残して、あるいは抗議の録音が残っている。誰も関心を持たないけどね、無視することが優越感、面白いのだ。なんという悲惨な社会だと思わないか。他にもたくさんの風力被害者がいて、苦しみ狂い死んでいく。「風力の被害など聞いたこともない」と彼らは言う。トテモトテモ、地獄の風景やで。住めば都か。何でもいいから、早く風力発電を撤去してくれ。息苦しくて死にそうだ。