原発も風力もいらない。

今朝の産経を見ていて、原発の安全性・再稼働の記事と、この文章が対になっていることに気が付いている。巧妙な心理操作だ。原発と再エネはコインの裏表。どちらも同じことだとは初めから指摘されていた。原発音頭を踊って、地域の人々が完成を祝っていたのはいつの事だったのか。北陸でも福島でもあったよな。そういう狂気の時代を見ながら、由良町の周辺では3か所も原発計画がありながら、うまく難を逃れた。

風力被害でそれらの闘士と話し合うことができた。当然弾圧がある。だから私の悪口合戦なんか気にするな、と励まされたものさ。なかには見事に変心して、私を拒否した奴もいたけどな。自然エネルギーならいいじゃないか、というのだった。谷口さんら被害者の悲惨な被害を見ながら、よくもそんなことが言えるなと驚いていた。晩節を汚す、簡単なことだったのだ。

大切なものは何か、年取って分からなくなったんだろうかね。とくに政治に関わる人の汚さを見る。自公も共産もない。駆け引きと、信者の引き回しだけしかない。そんな利益供与と仲間意識で、肝心の【被害】の事は何も分からないらしいのだ。原発銀座や福島を見れば分かるわな。風力被害地を見れば余計にその酷さが見え見えになる。摺り込まれた呪いに、同じ言葉を繰り返すだけのオウムになるのだ。

カルトやで。役場、環境運動家、地域のスパイ工作員、連絡網が確立されていて、それが常識になるらしいのだ。被害を訴える私なんか、それはもう大変な嫌悪の対象だよ。前回の反原発の人は、死ぬまで変人だと言われていた。同じように同僚として勤務していた人とも話したけど、みんな簡単に裏切っていたね。保身、地域に溶け込み仲良く暮らす、世間には逆らわない、典型的な穏やかな日本人であった。

私から風力被害の話を聞いても、マァ! と驚くだけよ。いくら話しても説明しても、通じることはなかった。風力被害者になって低周波被害を訴えていると分かるんだよ。耳だけでなく、心まで敏感になっているからね。精神的なダメージとなって返ってくる。そんな人も、もう死んでいるからどうでもいいか。風力地域でも、原発地域でも、地域対策の恐怖をこれでもかと見た。セットになっているんだよ。

どんな被害があっても、抵抗できなくされている。警察の弾圧もあるしな。江戸時代の安政の大獄と同じだよ。封建時代のままやな、と京大の小林教授たちは笑っていた。それなら、なかには反発する志士が出てきてもいいだろう。大塩平八郎の乱とか、たとえ役人であってもその不正に我慢がならん、という人は必ずいた。その矜持が日本社会で、幕末・明治の時代になったと思っている。

革命なのに大した戦争にはなっていない。紀州藩も尾張藩も、洞ヶ峠よ。出来レースになっていた。風もないのに風力発電が回っている。風力が詐欺なのは初めから分かっている。由良町の風力被害の悲惨なことは全国有数でな、多くの環境運動家が押し寄せた。その割に誰も被害の実態を伝える人はいなかったし、谷口さんら被害者を助けようなんて正義漢もいなかった。問題の大きさを間違えてはならない、か。

それよりも大切なことがあるという。何だろうかね。「明日では間に合わない」とテレビコマーシャルで散々やっていた。間に合ったんだろうか。ダメだったんだろうかね。あのな、日本人に【意味】はないんだよ。それが何を意味するかなんて、思っても見ない。言われるまま、指示されるだけの奴隷でしかなかったのだ。今も当時のままだよ。由良町の北側の山々には21基の風力発電が勢いよく回っている。

耳鳴りと目まい、しんどくてならない。低周波音の怪奇現象に、被害者は地獄の底を覗き見る思いで死んでいった。クスリ漬けにされていた。迫害、烈しい弾圧にうろたえる哀れな姿を見た。「私たちは風力発電には反対ではありません」というのだった。被害に苦しみながら、なんでそんなこと言うんだい、と私は何度も言ってやった。「出て行けっ」と叫ばれたよ。泣きながらそう言うんだよ。

人々は面白くてならない。アホよら、と私にまで言いに来た。それほど嬉しかったのだ。地域対策の恐怖よな。精神を破壊されるのだ。倫理観を無くしてしまう。何だろう、この不思議な感覚は? 人々はとても嬉しそうに笑っている。それは東北の秋田や山形の風力地域でも同じで、まるで被害など何もないかのように笑うのだ。海にも平地にも山々にも風車が林立する。そんな所に住みたいか。

恐怖の騒音・低周波音の世界に人々が繋がれている。「風力の被害など聞いたこともない」と云うんだよ。狂っていると見るのは私だけなんかい。COPはタダの国際政治のイベントやで。太平洋戦争のカラクリを見ただろう。炭素取引とか、グリーンディールとか、ヘンだと思わないか。すべてペテンなんだよ。150兆円の無駄遣い。日本はまんまと嵌められたんやで。