お花畑の恐怖を見る。

水俣や福島の被害を見て、風力発電の被害もまったく同じ構造だと書いてきた。被害者がいる。苦しみながら死んでいる。なかには目も当てられない弾圧と恐怖政治に目を見張った人もいるだろうに。日本ではなぜ、こうまで同じ公害を繰り返して懲りないんだろうかと原理を書いてきた。海外から指摘されたことも多々あったはずなんだが、日本人にはどうしても通じることがなかった。

私の書いた『風力発電の被害』なんかボロクソだからね。由良町では村八分の笑いものだよ。風力被害者は、これでもかと貶められて死んでいったことを伝えてきたつもりだ。弾圧はレジャー化していて人々の楽しみになっていた。私も一緒に笑ってやっている。皆さんが喜んでくれて私も嬉しいよ。ただ、耳鳴りと目まいと息苦しさで死にそうだ。たまたま福島の被害報告みたいな本を読んでみた。

ジャーナリストの書いたものだから被害者の感覚はない。フンフン、と思いながら、これは違うな、と嫌悪感が沸き起こる。放射能被ばくの被害者の事がない。再エネ百パーセントだ、技術開発だ、とお花畑に結論する。取材している割には、ベースとなる常識がスッポリと抜けている。いや、それが目的なんだろうとさえ見えてくる。再エネビジネスの宣伝本なのかい。福島の風力を書きながら、低周波被害、福島沖の600億円の実証試験がない。

水素だってか? 極めつけはドイツでは、といういつものプロパガンダになっていることか。浅知恵、浅薄、幻想、誤解、どうも地に着いた内容がない。お花畑。工学部卒の技術屋から見ると、これは違うな、と結論する。政治家の言をいくら取りまとめても、箸にも棒にも引っかからんよ。無責任主義、彼らは何でもいいんだよ。太平洋戦争で何度も見た風景だ。身近では、水俣や福島の政治を見たら分かるでしょ。

SNS、 twitterの記事を見ると、まったくそれらの被害がない。情報操作、被害の隠蔽が行われている。陰湿な汚い連中が絶えず見張っている。スパイ工作員だね。風力コマーシャルがドツサリと出ていたりね。専門の広告屋がやっているから煌びやかで洗練されている。言葉とはなんと便利なものだよ。今や私一人が風力発電の被害を訴えている。誰も、もう関心を持つものもなく、除外の対象、偏見よと嘲笑う。

そのようにして各地の風力被害者は消されてきた。その地域に住む人にも心模様、人間としての社会性があるだろうにな。体制派に付く。勝つ方にいないと損をする。被害者はいつも少数派でしょ。被害者になると精神的にもダメージを受けて思考を無くしてしまう。ヘンな人に変身するのだ。これがまた笑いの対象として喜ばれる。アホよら、アホよら、と言って手を叩いて踊って見せてくれるからね。それほど人々は、被害者の狂いようが面白い。

ドイツのナチスが笑いながらフランス人やポーランド人を殺していたのと同じ心理模様だ。真っ黒けだ。日本人も東南アジアでやっていたんと違うのかい。石川県の地震ニュースをやっていた。ちょうど原発のあるところだ。福島原発の繰り返しかい、と心配する。どちらも辺鄙なややこしい土地柄だ。カネ儲けのダシ。北陸特有の秘密主義、排他的な風土がある。歴史文学、歴史ドラマでは、「能登の守」、能登殿とかいう。

単なる朝廷の役職ではなく、何か意味がありそうだ。行ってみたら分かるけど、不気味な空気やで。紀伊半島も同じことか。添付の本には地震動の説明が長々と書いてある。素人が書くと、こうまでオカシナ論理になる。私が設計屋として原発に関わったからだろうけど、外力に対して部材の限界値がある。ストレス、ストレイン、力と変形、歪、どこまでも耐えられる構造物なんかない。シェイクしたら中身は壊れるだろう。お花畑にはムリか。

政治話はもちろん論外だ。それは再エネ議連に見られるように、カネのやり取りだけのこと。それが人々の求めるものになっている。被害者はいらない。福島にも被ばく被害を訴える人はいるだろうに、すっかり消されているやないか。弾圧されたんか。暴力を振るわれたのか。どんな被害に遭われたのかを見せて伝える必要がある。政治は機能しない。やはり気が付いた人が「止めろ」と声を上げる必要がある。明治維新がそうだったやないか。

これまでの社会を取り壊して、まったく新しい新生国家を樹立した。草莽崛起という。この本を読んで怒れよ。何を言われてもアホにされてもヘイヘイと俯いて生きていく。追い出される。流人になる。移民さんと変わらない。原発政策ですっかり世間ズレしているからね。一般社会では通じない。最下層の人になっている。何のために、と疑問を持とうじゃないか。一度狂ったら、元には戻らないみたいだけど。国策とはそれほど恐ろしい風景を生む。風力発電はアカンで。