日本にレジスタンスはないのか。

各地で風力発電を考える会が盛況だ。いや、個別に見ると関係者だけの決まりきった人だけの社会になっている。学習会とか、講演会とか、youtube動画になって公開されているでしょ。一方、低周波音の被害者がいる。これが主な被害になる。騒音がうるさい、というのは卓越した低周波音があるからだ。

低周波音は人の耳には聞こえないからね。風力被害地へ行くと、それが風圧のようにして頬っぺたに感じるんだよ。風じゃない。空気振動、気圧変動を肌感覚で感じるんだ。最初の6ケ月ぐらいが一番つらいかな。目まいがして気絶する。倒れてしばらくすると意識が蘇る。こんな繰り返しで、すっかり生活できなくなる人がいる。

南出さんという人がそう言っていたでしょ。何度も救急車で運ばれたという。私もミカン畑で倒れて転落して、ろっ骨を二本折った。ちょうどミカンの収穫時期でね。ギーッコ、ギーッコ、と肋骨が擦れ合って痛かったことよ。人々は笑っていた。あるいは憎んでいた。ウソつけっ、とな。地域の人は皆知っているんだよ。

だから被害者を笑いものにするし、罵声を浴びせて喜んでいる。社会は完全に破壊されていた。同じことは水俣の本を読んでいたのですぐに気が付いたよ。45年前、長岡技大にいた時に八代高専の人がいた。言ってはならないのだとさ。私はそれを風土病やな、と感じていた。呉高専の人もいて、被爆二世だという。

差別するんか、と話しかけられた時、なんと言ってよいか、私には言葉がなかった。彼らはその世界にドップリと浸かっていたのだ。ちょうど和歌山高専でケロイドに顔を引きつらせた先生がいたからね。その数学教師から被爆の話を聞いたことはなかった。被害者とはそんなものだろう。しかしな、由良町では風力被害者たちは泣き叫んでいた。

よっぽど辛かったんだろう。h24年、私も風力被害に苦しんでいたし、旧家のボンで、アホで有名だったからね。思いっきり、苦しさを言葉にしたんだろう。枕をもって、部屋から部屋へ渡り歩く。朝までうろうろして落ち着く暇がない。すぐに死んだけどな。あるいは被害に苦しみながら、世間との付き合いがあるから「被害」の言葉は言えないんだ、と伝えた人。

やがてガンになって即死する。周囲にはそんな人がたくさんいたやないか。なんで誰一人として、「風車を止めてくれ」ということができなかったんや。なんで私一人に押し付けて、私を排除して、ブリブリッ、と私に怒りを爆発させたんや。それほど私が憎かったのか。さて、各地の風力反対の人士が、急に手のひら返しで環境運動家になっている。

もともと「土砂崩れが心配です」というあたりで、こりゃダメだ、と思っているけれども、こうも易々と正体を現されたんでは興ざめよ。環境運動会。オウム。摺り込まれた言葉をアホみたいに繰り返す。仲間として認められる条件だわな。とうに周囲には風車病に苦しむ被害者がいるだろう。ヘンになった人。ガンや脳梗塞で消えていった人。

関係ないか。関心もないのが、手のひら返しの言葉でよく分かる。風力発電の被害に抵抗する気持ち、よりも周囲に認められて仲良く暮らしたい。ぬるま湯のような、いや、暑苦しい。嫌なエセ反対の数々を見る。信用度ゼロ0。その結果として、ドンドンと風車が建って行く。被害者の声はどこにもない。関係ないわ。

昨夜、BSテレビでフランスのレジスタンスをやっていた。ドイツ人でも、見て見ぬふりをする人がいたという。レジスタンスは組織化されなくとも、人々は善意の抵抗運動に協力したという。人が殺されるとき、心の痛みはないのか。レジスタンスは、人として当然の行為ではないのか。だからユダヤ人を助けて逃がしたとさ。

この精神は今も風力反対運動の根幹と通じている。これやな、と思うのだ。日本にはこんな文化や思想はないでしょ。とても羨ましい。今朝の産経には、拉致事件や強制収容所に「無関心になるな」と書く。しかし産経は原発と再エネの広告新聞だ。被害者に対する暴言は悲惨を極める。産経記者の人を刺し殺すような罵声は忘れられない。

よくも白々しくこんな記事を書くな。レベルの低さよ。各地でやっている風力反対運動はニセモノだ。彼らは被害者を助けない。無関心じゃない。ジャマ、精神疾患、自己責任、排除にしか関心はない。風力事業の手先であることは、この10年の風車建設を見れば分かるだろう。被害者らはすっかり人間性を無くしている。

それほど激しく弾圧されたんかい。あざ笑いの対象としてな。由良町でもそうやった。みんな笑いものにされて殺されたんやで。それで海外では、あんなにも烈しく抗議デモが起こされている。この対比が分かるかな。私は一人で真実の風力発電の被害を訴えている。ニセモノは、嘘はウソでしかない。

キミらの環境運動の目的は何か? どこへ連れて行かれるかも知らないで、ドツボにハマって、良く喜んでいられるな。