再エネを謳いながら金儲け。

添付記事は2010年4月、全国に発信された。まだまだインターネットは普及してなくて、Iphonもない。紙媒体が主役であった。今でもそうかな、百姓にインターネットなんかする人はいない。由良町では私だけとか、ごく限られた変人と見られる。「ゲームをやっている」そんな笑い話にされている。

今、現在でもそうなんだから由良町の時間感覚は止まっている。京大の小林教授、奥西教授が視察に来た時には「由良町はまだ徳川時代で、封建社会にある」と言って笑った。何がこうも時代感覚のズレを見せているんだろうか。まるで魔法にかけられたように人々の語彙、言葉の数々が消えていく。

決められた言葉を、順序よく喋っている。「何やさかいに、何よな」いったい何のことを話し合っているのか、当人たちにも分からないだろう。傷を舐め合うようにして、感情の起伏を慰め合う。刑務所の囚人たちかい。頭をやられているから、何を話しかけても反応が決まっている。AI、アンドロイドか。

今まで私が過ごしてきた地域社会じゃない。「ようこそ地獄へ」とは、海外の風力地域の看板だ。ヨーロッパでは人々の風力に対する憎しみが露わになる。ところが由良町では人々は嬉しそうに笑っている。理由があるんだろうか。被害内容は同じで、症状は各自、自覚している通りだ。耳鳴りがする。

目まいがする。体がしんどくてならない。生活が破壊される。大切な人生が、まるで地獄の苦しみに代わる。それを聞いた人々は笑い転げるのだ。何がそんなに面白いんだろうかと。世界の風力被害と、日本の反応は正反対、真逆になっている。さすが原爆を落とされても反省しかない国民性よ。

アメリカからこれでもかとアホにされても媚びを売る。被害者を差別して嫌悪する日本人たち。水俣や福島でも同じ光景を見る。風力被害も、まったく同じ有様である。低周波音の被害者は頭をやられるから、ヘンな人が多い。ヒステリックに叫んだりね。感情を露わにして、真っ赤な顔して怒ったりする。

ワッ、すごい、と驚きながら、被害者の悲しさを見る。そうして死んでいく。逃げ出した人はまだよい。いや、口惜しさと後悔、何か大切な魂を抜き取られた抜け殻みたいになるんだろうか。大事な自宅、仕事場、蜜柑畑、何もかも人生そのものだ。それが地域社会を構成していたと思っていた。

一旦破壊されてみると、なーんや、人は、こんなにもアホやったんやと正体を見る。被害者を見て喜んでいる。死んだら手を叩いて踊っている。フンッ、と嫌悪を見せる。今の社会を成り立たせている原理は何だろう。恐怖政治。知らぬ間に人々の心は孤立していた。誰かが自由に操っている。

の時々で話し合う言葉も決められて、決して風力発電の言葉は使えない。タブーになっている。信仰の対象かい。宗教やっているようだ。べつに強制ではないけれど、これまで風力被害と言った人の末路を見ると、悲惨な結果に拒否感しかない。風力は恐ろしい。近寄れない崇高の存在として生活を支配する。

カルトなのに、イデオロギー、全体主義の怖さを肌身に感じて従っている。みんながそうだからね。役場の怖さよ。「風力の被害などない」決められた言葉にひれ伏すのだった。添付記事にある伊豆や伊方の被害者たちは全員が死ぬか逃げ出している。メディアは、絶対にこの被害を伝えない。国策だからね。

巨額の税金が費やされている。それがどんな使われ方をして、どんな結果になった、なんて報告はどこにもない。戦時中の大本営の発表どころか、資料がない。誰も責任を取らない。無責任主義。政治の悪さよな。日本には、よっぽどカネが有り余っているのだ。予算の消化が目的の一つにある。

これまでの風力発電の実証実験のアホらしさの数々を見れば、なんで? としか思いつかない。失敗しかない風力発電を何で毎日建設しているのか。ベースロード電源にするという。初めから無理なのは分かっているのに、イノベーションが重要だと繰り返す。アホ、としか言いようのない目的? に向けてまっしぐらだ。

結果の検証はまだ、ない。政治は、末端の町会議員まで、なんですべての議員は風力発電に賛成推進なんだろうね。被害者を否定して、その人の死をあだ笑う。異様な現実に、誰も「違う」と言わない。アメリカやヨーロッパにはこんな場面はない。日本だけの特殊な判断だ。誰か教えてくれないか。

なぜ日本人は風力発電の被害を否定して、再エネだ、自然エネルギーだとスローガンを繰り返すのか。採算や結果を考えてみたことがあるのか。なぜ誰も、再エネ被害を無視するのか。悪意に染まった人々の言葉に、完璧な破壊やな、と社会政策の恐ろしさを見る。ディストピア。それが面白いというのかい。