風力被害者は笑いものとして死んでいく。

由良町の畑地区の谷口愛子さん宅で測定した、日本気象協会の報告書のウソを説明してきた。h24年2/25日に事後報告会があって、その時の録音には谷口さんの怒りが明らかにされている。30名ほどの住民が集まっていた。ほとんど被害者の集まりだった。初めから烈しい怒りの声が上がっていた。その上での、個人を狙った卑劣な犯行だ。ところが、その報告書の記述を見せても、録音の生々しい怒りを聞いても、誰も反応しない。

あの時、出席した被害者たちは、なぜ沈黙したのか。由良町全体の反応は笑いものだった。何重にも取り囲まれて弄ばれていく。私も日本気象協会の調査を受けることになっていたけど、結果が分かっているから断った。それで別の測定業者に依頼することになったけどな、これもまた酷い有様で、同じ穴の狢かい、と環境ビジネスの真っ暗な闇を見せられた。ペテンにかけられたのだ。『風力発電の被害』にその経緯を書いた。

由良町では大喜びよ。理由を知っての弾圧に、何が何でも私をやっつける、排除する罵声が覆っていた。周囲の住民たちはヘラヘラと笑っている。人の不幸が面白いのだった。「ワシらは面白うてならんのや。ワッハッハッ」とアホにされたものよ。民衆の敵と言う。我家は旧家で、これまでたくさんの貢献をしてきたと思っている。情けは人の為ならず。親切がそのまま敵意となって返ってくる。これまでの付き合いも繋がりもあるかいな。

笑ってしまったよ。同じことは畑地区の被害者たちにもあって、黙らせるためには暴力も振るわれたと聞いている。低周波被害の苦しみを言葉にしてはならないのだ。社会が、被害者を黙らせる。こんなことが出来るんやね。もちろん私の住む門前地区でも同じことだよ。その皮を、ペリッ、とめくってみたら、私を憎らしげに見る怒りがあった。なんでや❓ とこのページに書き続けてきた。由良町は古い港町で、古事記に神功皇后の船出の地と書いてある。

三韓征伐に、九州の平定に、ここから出陣されたという。百人一首にある「由良の戸」の言葉も、この時の紀淡海峡の波の激しさの記述が、恋の荒波に変化した。江戸時代には、大阪と江戸を結ぶ交通の要所となって繁盛した。由良港を出ると太平洋だからね。風待ち、避難港として利用された。我家も廻船問屋の一員として賑わったらしい。昭和30年代、私の子供時代にもまだ古伊万里の詰まった木箱が積んであったと母に聞いている。

当時、冷や麦を食べるのにオチョコが大変人気があったんだとか。それを売って生活費に充てていた。港町だから他所者ばかりで自由な気風があった。百姓でも移動があって、四国や九州から来た人が多い。南海道の東端よ。こんな社会風土も、風力被害の前にはアッ、と言う間に消し飛んでいた。見事な社会支配、コントロールを見ていた。私より頭の良い人はいくらでもいたんだよ。正義感のある人や、堅物まで、普通のどこにでもある田舎町と変わらない。

それが風力被害を見る段になると、水俣病と同じ風景になる。被害者に対する差別だ。もともとが畑地区はそのような差別言葉で呼ばれていた。私は何のことか理解していなかったけど、風力被害を通じて、その意味が明瞭に透けて見える。とくに風力裁判で私を訴えた人は、風力の被害など聞いたこともない、と裁判所で豪語した。警察や検事も、アンタだけでしょ、と言っていたけどな。この事実に、由良町の人は笑いごと、としか見ないのだ。

それよりも嬉しくてならないようだ。これは彼らの倒錯や勘違いではない。風力被害の見方、価値観そのものであった。私も選挙やったから。畑地区には行けなかったよ。ボロクソやった。それほど私が憎いか。と同時に、へーえ、こんなになるんや、と風力政策の恐ろしい地獄の風景を確認した。電話して聞いてみたらいいで。もともとがそんな素質があったにせよ、これが日本人社会の掟か、とビックリするのは私一人なんだろうか。

たくさんの風力被害者が苦しみながら死んだことを見ている。周囲の人は当然その事実を知っている。役場もな。海外ではどの国でも、烈しい風力反対、抗議デモをやっている。日本では、「土砂崩れが心配です」とやっている。あるいは御用学者を担いで、専門家が言っている、オマエなんか! と私をアホにしまくりよ。ついに日本では、風力発電の本当の被害を、低周波音の被害を訴える人は誰もいなくなっていた。私一人、いやー、参ったね。

真実がこれほど厳しく、困難な絶壁とはな。日本だけやで。全国の自称・風力反対を見たら、そのイカサマは見え見えでしょ。ロボットなんだよ。操り人形よ。既に日本国中にたくさんの被害地域が出来ている。誰一人として反抗できないでいる。ウソつきばかりだ。それがさ、彼らに言わせると、私がウソつきなんだって。一人、孤高に震えるばかりよ。

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