由良町や周辺の風力発電は、三井造船由良工場の施工になっている。ペーパーでな、実際は建設会社が施工した。鞘抜きの典型だ。由良町に三井造船が来たのは50年前のこと、働く場所が出来たと、皆さん喜んだものよ。我家では駅前アパートを始めて、工員たちを受け入れた。一時、賑やかに見えたけど、1万人の人口が今、5千人になっている。人口は半減した。そこで働く人の有様よ。
私も安全に暮らしたいから詳しくは書かないけど、風力の被害を見れば、どんな顛末か分かるだろう。三井が上か、町民が下にくるか。企業城下町なのか。我家は千年の旧家だから、この体たらくを見ると、なんとまぁ、と人々の奴隷根性を見てしまう。それで風力被害の苦しみを声に出来ないのか、でもないか。しかしな、かつて水俣市では、チッソの会社が上で、漁民や町民は世話になるだけの厄介者だったと書いてある。
自己家畜化した社会の結果、市長は工場長、議員もチッソ社員、泥沼と化していた。由良町も同じようなものか。私は絹のハンカチだったと思う。とても立ち向かえる相手ではなかった。被害者でさえ、私を嫌悪して拒否していた。差別意識がある。はよ死ねよ、と思ったさ。谷口愛子さんもそう思われていたし、実際にその言葉を聞いていた。というより、風力被害を訴える者は特殊な「ナニカ」であって、認めるわけにはいかないと決められていた。
このページのh24年からの記事には、行政が、役場が、繰り返し被害者を否定する場面が登場する。その場面をこのページにアップしたら、裁判すると脅された。誰一人として風力発電の被害を言葉にするものはいなかった。私に対する弾圧の凄さよ。今もそれは変わらない。なぜや❓と問い続けて来たけどな。人の不幸が面白い。風力発電に被害のあることは分かっていたから、なおさら嵩にかかって攻めてきた。
正しいことが勝つと思うなよ、議員たちはイキリタッテいたよ。悪の愉悦よ。人種が違う。私は自分が何者であるのか、やっと分かったし、彼らに教えてもらったのだった。もっとヒドイのは、私の住む門前地区で、昔から付き合いのある人たちだと思ってきたけど、親類もたくさんいたけど、結局は親の言うとおりにダメだったのだ。身分差、と言っておこう。本当はもっと彼らの事情とか悔しさがある。
貧乏百姓の我家が、意識だけで、こんなにもかけ離れた高みにいた。武士は食わねど高楊枝ではない。喰っても、食わなくても、種類の差が明らかにされる。人間性でもない。被害が明らかになり、助けを求める人を賤しめて殺す。「アホよら、アホよら」という笑い声をどれほど聞いたことか。大卒とか、学校の先生とか、地位とか全然関係なく、人々に道徳心は無くなっていた。よく差別心というけど、被差別の括りはない。
畑地区のその言葉は地域の慣習みたいに聞いている。もし風力被害がなかったら、私はその言葉を理解することはなかっただろう。生々しい厭らしい言葉を聞かされた。これはアカンわ、と思ったさ。たぶん由良町のあちこちで、そんな会話を人々は楽しんだろう。それが人間破壊、社会の崩壊だと書いてきた。例え話で恐縮だが、秋田の風力地域で低周波音の事を聞いてみたらよい。東伊豆町でも、南伊豆町でもな。
電話で聞いてみるだけで、ビックリするで。それを各地の環境運動家たちは連携して、組織的に活動を展開している。私一人の物言いなんて、そんなものゴミ屑よ。彼らはバックに国家権力がある。風力のイヌだよ。原発地域の現地要員と同じさ。たまたま本の紹介記事を目にした。フンフン、と見ていくうちに、原発と再エネのムラ社会が書いてある。しかしな、最後まで被害の事がないんだよ。
被害者がいて苦しんでいる、なんて一番大事な論点がない。言葉のすり替え、心理トリックだ。せっかく緻密な考察を積み重ねているのに、別の話し、あさって、の事になっている。何の話よ?、というわけさ。この仕掛けられた罠が分かるかい。何が何でも「被害」にするのか、と怒るかい。もし風力に健康被害がなければ、環境省の調査報告も無意味になるし、「考える会」などの地域対策も要らんわ。
意味がなくなる。なんやのん? で終わるでしょ。つまりな、低周波音の被害は核心なんだよ。もちろん海外ではみなそうなっている。日本だけ、分からなくされている。いや、本当はもう分かっている。水俣病や福島原発の放射能と同じ事だ。それを言ったところで、どうなるものでもないか? そんなことはない。そもそも地域の人がキチガイになって喜んでいる。これはイカンでしょ、と私は訴えている。オマエは間違っている、と言うかい。