風力発電の被害と、思索のシリーズ

以前は各地の風力被害地で苦しんでいる人たちが投稿を繰り返していた。伊豆半島や伊方町が有名だった。10年も経つと、その人たちも年取って80才になっている。気力の衰えと諦めに消えていく。とうに引っ越している人は多いだろう。私はこのページで、その人たちと同じ目線で低周波音の被害と人々の無関心を訴えて来た。

社会的な弾圧があるから、私の方が難儀しているかな。海外の風力反対、抗議デモを見ていると、なぜ日本にはこんな社会運動がないのかと驚くのだ。不思議でしょうがない。自分たちの事なのに「関係ない」と笑うからね。被害者でさえ、「風力発電には反対ではない」というようになっている。「どうでもいいんや」とな。

じゃぁ、誰がこれまで見て来た風力被害者の苦しみや死を、明らかにして伝えるのか。私は今も低周波音の被害に苦しんでいる。何が悪いのかは毎日、耳鳴りや目まいに苦しんでいるから間違いようはない。低周波音を測定してみたら、酷い分析図になるやないか。まるで爆撃機の爆音を横で聞いているみたいな空気振動になっている。

卓越した被害成分が明らかだ。こんな物理的な原因は世界の常識だよ。日本人でもこれくらいの知能はあると考える。全国には既にたくさんの風力被害地があるから、被害者の悲惨な有様を見たことだろう。なんで人々は喜んでいるんだろうね。人々の胸や心が、誰かにコントロールされているんだろうか。日本に抗議デモは一つもない。

風力発電の肯定と、被害の否定。土砂崩れが心配という割には、どこにもそんな被害はない。言葉のすり替え、イメージ戦略だ。もっと言えば、「事実」を含んだフェイクニュースに仕立てられている。玉石混交の世間話にして、被害者の人物破壊が行われる。人の悪口は楽しいからね。体制側でいるためには、アプローチがあるとオウムになって同じ言葉を反芻する。

被害者を笑いものにして喜ぶのだ。社会の破壊か、排除の法則か、変人の迫害よな。あの人、ヘンやで。そうやって孤立化させる。引き剥がし、分断、世論工作が面白い。そうやってたくさんの風力被害者が泣いて死んでいった。もしかしたら風力の低周波音被害と共に、社会的な弾圧が命を奪ったんやろ。

なんせ手を叩いて笑って喜んでいたからな。その喜びようは何なんや? と恐ろしくなったものだよ。人は簡単に冷酷なバケモノに変身する。モラルとか道徳なんてウソばっかりよ。ユダヤ人の大虐殺はこんな心理構造なんやなと分かる。日本でも、堂々と被害者を死に追いやって笑っている。反省なんてどこにもない。

目の前には21基の風力発電が回っている。健康被害があることは、たぶん誰でも知っている。それでも他人の被害がそれほど面白いんだからな。ヨーロッパやアメリカの風力反対から見ると卒倒するやろ。CRAZY(狂気)だよ。日本人には、どうしてもこの対立軸が理解できないらしい。悪とか、正義とか、そんなことどうでもいい。

みんなと一緒に笑いあって楽しんだらいいじゃないか。もし自分にも被害があったとしても、それだけの事だと考えている。「辛抱できんのかい」とな。レジスタンス、抵抗感なんて感覚はない。家畜や。長州新聞に学者たちの議論が載っていた。のんきな話にさすがやなと感心する。幼稚園児じゃあるまいに、的を外れた大人子供の感覚を見る。

みんな生活があるからね。被害者がいて苦しんでいるなんてトテモトテモ。知るかいな。私は何度かこんな学者会合に参加したことがある。アホラシ、の一言であった。正義感がない。義侠心がない。虚無、カラッポな人たちを見た。政治家や役人は悪意にギラツイテいるからね。生きていくのも大変さ。それにしても日本では、すっかり風力被害の訴えは無くなっている。

風力ファシズム、全体主義、恐怖政治、弾圧、社会工作の成果なんだろうかね。私に対する弾圧の酷さは、このページの初めから見たら分かる通りだよ。おかげで思索の旅を10年も続けている。「オマエは、ホントに日本人か」とよく言われるんだよ。そのつもりだけどな。家柄意識が沸々と沸いてくる。人種が違うんだよ。

京都から都落ちしてきたお公家さんの末裔だよ。千年経っても、地域にはなじめなかったようだ。各地の平家や源氏の子孫もそうでしょ。社会との折り合いが本当に大変なんだよ。風力被害を通して、やっと自分のことが分かってきた。これは他の風力被害者も同じこと言っているね。

大変な被害に遭ってきたけれど、一つだけ、これまで生きてきた中で真実を見極められるようになった、とか。よっぽどみんなにイジメられたんだね。その被害者たちは皆死んでしまったけどな。