日本には風力被害者がいない怪奇現象

今朝の産経記事を見ていて、学者とはお気楽なものよ、と吐き捨てている。各地のエセ風力反対と歩調を合わせているのだ。環境運動会なんだよ。何のために? という疑問が巧みにすり替えられている。結局は広告新聞よ。健康被害があるから、世界中で抗議運動が起こっている。

英語だけじゃなく、ドイツ語やフランス語で検索すると、それぞれの詳しい風力反対の記事が載っている。もちろん風力コマーシャルに覆われているけど、少しググると、真摯な抗議デモが溢れている。これが日本の環境運動との違いやな、と分かるのだ。私はこのページで、なんで日本の風力反対は世界のそれとは違うのかと論じてきた。

「土砂崩れが心配です」なんて記事は、海外にはどこにもないでしょ。日本独特な言葉遣いなのか。それが日本精神なのかい、と繰り返してきた。そこに見るものは、本当の風力被害を隠して分からなくする作戦だったのだ。御用学者、御用運動家、風力事業と一体になった日本の全体主義、社会主義のアホらしさを見る。

風車を5mズラして、隣町の施設にする。計画本数より、3本減らして、予定通り風力発電群を建設する。取引しているのだ。彼らの演出だよ。風力発電の健康被害は分かっているから、地域の人は頑張ってくれていると思い込む。スパイ工作員になった人たちのエラブリ(偉いぶり)よな。

権力の手先となると、こうまで偉そうになるのかとその人の嬉しそうな活躍ぶりを見る。風力発電が建設される地域は、それだけでもう終わっている。私の書いた『風力発電の被害』の通りだ。あの時は少しでも早くこの被害を知らせなければと急いで書き上げた。もっと掘り下げて書くべきだったけど、そこまで考える余裕なんてなかったのだ。

事実だけを書きなぐった。人々の反応がまた素晴らしい。「ウソつくな!」、「作り話が書いてある」、誰も読まないよ、なんて悪口ばかりであった。汐見文隆医師もニーナビアポントもそうだからね。名誉の勲章さ。由良町では一冊だけ売れた。被害が分かると思って差し出した人にはその場で投げつけられたよ。

我家のミカン畑にはボロボロにされたその本が捨てられていた。まるで死んでいった被害者みたいに。風力被害者は、何で黙り込んでしまったんだろう。ひどい弾圧があるから言葉だけでなく、人間としての尊厳まで奪われてしまうのだろうか。アウシュビッツの体験記『夜と霧』フランクル著には、動物になって生きる収容所生活が書かれている。

運よく解放されたのに、何をどうして良いのか分からなくなっていたそうだ。家畜になってしまうんやね。私は風力被害地を見て、人は家畜にされるんやと見ている。重症の被害者は数%でも、癌や脳梗塞になる人、ヘンな人になったのを見ると、汐見先生らの言うように30%の人が影響を受けていると見る。

いや、脳梗塞でバタバタと死んでいるから、被害感覚はなくとも立派な被害者なんだよ。当人にはそれが分からない。綾小路きみまろのコメディと同じで、自分が笑いものにされているのに、他の誰か年寄りのアホさが面白いと感じている。実際、由良町を見ても、被害者の苦しみ、死んでいく様子を目の当たりにしているのだ。

しかし誰もその原因が風力発電だとは思えない?らしいのだ。じゃぁ海外の風力反対運動は何なのか。ヒステリックに烈しく抗議しているやないか。それは外国の事でしょ。日本ではない、と言い張るか。そのロジックがまた面白い。オウムになった被害否定論者は、受け売りの言葉を繰り返す。カルト化した風車教だよ。

オウム、パロットな、とは自分で分からないらしいのだ。体制派、権力の手先になるとアイデンティティ(自分の意味)まで無くしてしまうのだ。分かっているんだろうけどな。だから笑うんでしょ。被害者に対して、優越感に浸るのかい。その人に被害感覚はなくとも、病気になったり、性格が変わっていく。深刻な被害であることが分からない。

オーストラリアで判決のあった「Pathway to disease」の意味がどうしても理解できない。アフリカや南米のインディオでも危険を察知するのに、高慢な日本人にはそんな気配はない。被害者に対して、「アホよら、アホよら」と踊ってみせる。私にはどちらが土人の踊りなのか判断ができない。日本独特な精神風土を見る。

畑地区の谷口愛子さんの話を聞くと、深夜、国道42号を門前地区まで歩いて朝まで過ごしたという。寒い冬には表に停めた軽トラで体を休めたという。寝るのではない。ジッと、時間の過ぎるのを待っていたというのだ。環境運動家らの勧めでクスリ漬けにされていたから地獄の風景を覗きながら死んでいったのだ。

なんで由良町を出て行かなかったのだ。アホにされて虐められるだけなのにさ。私への悪口が少しでも役に立ったかい。「みんなが由良さんが悪いと言っている」、簡単な言葉で操られるだけになっていた。