奇妙な記事が目につく

新聞は被害者のためにあるのではない。その事をつくづくと思い知らされる。タダの広告新聞か、キャンペーンかい、と再エネの闇の深さを見せられる。もう環境運動家の言葉に関心はないけれど、お花畑の論議にはキャッ、キャッとはしゃぐ喜びようが目に見えるようだ。添付記事にはどれも被害者の言葉がない。何を言っているのか、書き手自身にも分かっていないだろう。環境破壊、景観悪化、だって。これって、基準も法律も何もない。

オーシャンブルー、何もない青い空、やりたい放題よ。例えば面積や規模で規制するなら分割したらよい。特区を作るとか。誘致を図るとか。無茶苦茶な論理を振りかざしてきたじゃないか。それに対して反対運動は、初めからセットされた「考える会」がすべてを呑み込んで消していた。見事な地域対策は、ヤラセは、初めから指摘されていたことだったんだよ。誰も反抗の声を上げることはなかった。ウソつきばかりよ。

これが海外の風力反対、抗議デモとの違いをまざまざと見せつけた。今でも、誰一人として、ヨーロッパやアメリカではこんなにして烈しく風力反対しているで、と言う人はいない。これが日本人の特徴、本質であった。試しに、「風力発電反対」と検索して見な。見事なほどに、的を外れた、言葉をすり替えたスローガンが踊っている。「風力発電が悪いんじゃない」とかね。悪いんだよ。悪の象徴なんだよ。

それに関わるものは原発被害と同じで、ウソばっかりを繰り返す。オウム、スパイ工作員、どの地域にも張り付けられている。江戸時代の忍者、草、隠密、いろんな言い方をしたでしょ。だから明治時代になって柳生藩の家老ら7名は引き出されて打ち首獄門に晒された。目付に対する復讐よな。日本人にはこんな実績もあるんだよ。もちろん明治維新の志士にも密偵がいた。インテリジェンスの恐怖は映画にもなっている。

単なる告げ口じゃない。既成の概念を破壊するための歴史の転換になっていた。温暖化とか人口増加、生産力のアップとか、社会が沸騰していたんだろうか。同じ温暖化でも、今の気候変動とは違うよな。世界的にもあちこちで戦争が烈しくなっている。いつまでやっているんだろうかね。自由主義社会の破綻か。昨日、私の百円売り場に、元大臣の身内の方が訪ねてくれた。たくさん買ってくれたのでありがとうと言って別れた。

30年前、秘書さんと夕食をごちそうになったことがある。もう忘れているかな、いや、覚えているか、思い出したかもしれないね。相当なご高齢になっていた。顔つきも話し方も彼にそっくりだ。御坊発電所の建設、四国側の阿南発電所から60㎞の海底を掘って由良港までケーブルを施設した。関空の建設にも関わって、お堀端の鉄鋼会館での会議に同席した。皇居が見渡せた。羽田孜が総理大臣になる現場を目撃した。いろんな「おかげ」を思い出していた。

政治に関わると怖いという。それでもこんなに笑顔で楽しんでいる人もいる。私に、何か利用価値があったんだろうか。あの日、近所の古刹に重役らが集まってお茶会があったという。茶飯と漬物が美味しいことで有名でな、飽食の時代に、何でまたと思うかもしれないけれど、凛とした禅寺に質素なご馳走がある。お焦げで握った握り飯の上手いことよ。親父がお茶くみ当番に呼ばれたと聞いている。奇妙な微妙な役だったんだろう。

私は何度か風力被害の資料を持って対策してくれ、と頼んでいた。返事はなかった。これまで何度か願い事を聞いてくれたけど、こればかりは無理だったようだ。ある秘書の家の裏山には風車が回っていて、どんなことなのか分かっているだろうにな。原発を作られなかっただけ、まだマシか。次の選挙には別の人が出ると聞く。世耕は嫌いだと聞く。その人の秘書は同じ建設会社で働ていたから、話が通じるかと思ったら全然やった。

結論はもうすぐだ。日本だけ、「Stop wind turbines !」(風力発電を止めろ)の言葉がない。政治家は、これだけは手が出ないみたいだ。再エネ議連で大儲けしている奴がいる。口パクで「技術開発が重要だ」と繰り返すおバカさんがいる。なんでこんなのが政治をやっているんだ、と思わないか。政府なんか、もともとは空っぽで中身はなかったんだよ。キシダは相変わらず「さらなる再エネの推進」と言う。もういらんわ。

各地でやっているニセモノの風力反対に騙されたらあかんで。土砂崩れでも更年期障害でもない。低周波被害、風車病で苦しみ狂い死んでいく。もちろん発電の役には立っていない。ウソの塊だ。政治も、少しは本当の力を発揮したいものだよな。弾圧だけでは苦しいだろ。人々のあざ笑いは、人間否定、人間破壊の演出だと考える。「あの人は、人間だと思っていない」呪い殺すような恨みを話して死んた被害者がいた。

その人も政治家に陳情したという。あれだけ一生懸命に応援したのにな。応えてはくれなかった。それが辛いかな。