STOP Wind Turbines !  (風力発電を止めろ)

世界中で同じ非難の言葉が叫ばれている。由良町のように、私に対する悪口じゃないよ。有害な低周波音を発する風力発電施設に対する抗議デモだ。ドイツの風力反対デモは有名だろう。「kein windpark」(風力発電はいらない)と検索すると、少しググると、ドツサリと各地の反対運動が出てくるで。皆さん真剣で烈しい感情を露わにする。隣国で仲の悪いフランスでもそれは同じで、「NON aux éoliennes」と検索して見な。

皆さんが持っているIphoneでも検索機能があるんでしょ。日本人にはそんな習慣はないけど、海外では、白人たちは、普通に情報集めに使っている。SNS、ネットワークサービスと言わずに、日常的に人々と繋がっている。これをグローバルと云うんだろうか。日本ではさ、あたかもグローバリズムと言って侵略とか世界支配とか言う意味に使われている。密閉した日本社会、島国根性、鎖国主義、徳川時代の封建社会が懐かしいか。

私は何も移民社会が~、と言っているんではない。ヨーロッパやアメリカの移民災害は悲惨やないか。ヒューマニズムの履き違えよな。そうではなく、被害に対してはチャンと抗議して拒否しましょう、ということだよ。地球温暖化、再エネ、よくよく見るとイデオロギーだけでなく国際政治の罠になっている。戦争するよりマシか❓ 違う。風力発電は人々の正気を失わせる。精神を破壊する。地域の道徳、倫理を無くしてしまう。

既に精神論にまで高まって抗議デモに至っているのだ。ドイツのDie Welt誌の記事は有名だ。Windwahn(風力発電の狂気)と検索したらたくさん出てくるで。ドイツだけじゃない。世界中で同じことになっている。日本だけ、何故なんだと、それが恐ろしくなる。日本だけ、「Stop wind turbines」の言葉がない。同じ被害システム、同じ民主主義国、と自認しながら、やっていることは水俣病と同じ弾圧だ。

差別、蔑視、排除、優越感、憎しみや怒り、あらゆる迫害が固定化される。不思議なのは地域の人々は大喜びしていることだ。「考える会」というお花畑を見たか。【土砂崩れが心配です】という。それがどういうことを意味するのか、マインドコントロールなのか誰も気にすることはない。ただ笑っている。それだけの事なのだ。これまでは風力被害に苦しむ被害者の非情な弾圧を書いてきたけれど、最近では無視、見ぬもの清し、になっている。

「風力の被害など聞いたこともない」という。被害者は住民の約1%しかない。頭の中の出来事なので証明することは不可能だ。「ただ言っているだけ」そのようにせせら笑いにされる。由良町で見たように、本当に症状の酷い人はすぐに死んだ。それほどにショックが大きかったんだろう。アッ、という間だったよ。とくに病気を持っている人が酷かった。あるいは心の弱い人とか。ボロクソに崩れていった。

こんな被害地の様子は、私以外にもたくさんの人が調査したんでしょ。役場、スパイ工作員、環境運動家、すでに東伊豆町以来の情報があるから何でも知っていたんだよ。どんな人が被害に遭うか、どんな地区、どんな環境が災いするか、なんてこともな。日本では今、水俣も福島も、被害者が認められることはない。もう、かつてのように死人はないけれど、人々の管理は厳重だ。被害の「ヒ」の字も言えないようになっている。

インターネットに投稿しても効果はない。ボロクソな非難の的にされる。生贄、環境運動の供物にされて終わりよ。つまりな、日本の環境運動は被害隠ぺいの罠になっていた。反原発運動でもそうだろう。新しいコンパクトな、事故のない原発になりました、とかね。再エネと原発はコインの裏表よ。どっちもいらんわ。私はこのページと、SNS、 twitterにも投稿している。誰も反応しない。日本人はダメなのか。たぶんな。

そして多分、ご自分が被害に遭っても抗議の言葉はないだろう。ヘラヘラと笑っているばかりよ。世界から見たらアホにされるで。人とは見なされない。昔、インディアンら原住民が虐殺されたのと同じ事になる。裏切りと無知。自滅に暴走する。ハワイ諸島でも、そうやって取り上げられたんでしょ。ごく少数の支配者によって蹂躙された。キシダは「さらなる再エネの推進」と謡う。抗う議員は誰もいない。

与野党全く同じ言葉が繰り返される。オウムの合唱、猿の人真似よ。太平洋戦争の時のように、誰かが操っていると思わないか。日本人はアホだから陰謀には気が付かない。人の不幸が面白い。それだけのことだ。150年前の明治維新が懐かしい。なんであんな事ができたのか。武市半平太とか坂本龍馬とか、いろんな志士がいたやないか。どちらも生き残れなかった。由良守應は運が良かった。明治を颯爽と駆け抜けた。

あの頃の青春物語を再び、と思うのは私一人ではあるまい。維新の会なんてエセは別にして、新しい国づくりに夢を膨らませる人は常にいる。隗より始めよ。私はそうしているつもり。