宴の後で

奇妙な衆院選挙であった。和歌山が、とくに特殊だった訳もなく、否応もなく社会の変化を見ていた。結果論になる。いつか見た風景かな。細川護熙の民主党政権が面白かった。政治ドラマを見て、〇〇劇場と喜ばれていたじゃないか。そんな余裕も今はない。政治の貧困を見た。それは私たち日本人の反映だ。人間レベルの話で、ますます小粒になっていく。熱血漢とか、理想主義とか、これまでの価値観が消えている。

平和な日本には卓越した政治言葉はいらないのだ。例えば、紀伊半島にミニ新幹線を! と言っていた。人の住まない辺鄙な熊野の国に、今はそんなこと言ったら笑われる。時代錯誤になる。代わって、風力発電やメガソーラーの普及に政治利権が露わになる。私は何度も彼らに由良町の風力被害を訴えたものだよ。ケンモホロロに無視、アホにされてきた。三人ほどの風力被害者が、それぞれに伝手を頼って、政治事務所に懇願したことを知っている。

警察にも助けを求めた。そんな情報は逆にピンポイントに封殺されてしまう。人間破壊だ。人間の弱さよな。溝に落ちた犬を叩く。死んだら笑いものにして喜んでいた。それらを見た町民は、どちらに着くべきか瞬時に決めたのだ。私は最後まで29回の一般質問で被害者たちの実態と苦悩を訴えた。結果はボロクソに否定されてお払い箱よ。被害地域からも、被害者たちからもな。善人ぶったセイかな。

私も低周波音の被害を受けて苦しんでいるからね。彼らの事は何でも知っているつもりだった。差別感情の事もな。結局は親父から言われたとおり、「ほっとけ。相手になったらアカン」ということだ。あれからも低周波音の被害と、人々の嘲笑いに、へーえ、と社会の不条理に反抗してきたつもりだ。周囲の人ら、ご近所さんらは勝ち誇っているけどな。何がそんなに嬉しいんだろうか、と彼らの内面を見透かしていた。

カラッポだった。憎しみとか恨みとか、私に汚い感情を見せたところで、何やろアホが、と思ってきた。私一人の妄想よ。二階さんと、世耕さんは、こんな田舎の和歌山にしては出世した有名人よ。だから今回の選挙は目を皿のようにして息をのんで見守っていた。政治に関心のない人でも、どちらやろ? と楽しみにしていた。諸行無常やな。小選挙区制の弊害かもしれん。以前はこの地域では三人も衆議員が存在した。

賑やかだったよ。その方が良かったんと違うか。泡沫候補の悪口を書いたけど、どいつもこいつも再エネ推進で凝り固まっていたんだよ。地獄に落ちろ、と思ったさ。それほど風力や太陽パネルの利権は光っていたんやね。欲望の衆院選だった。政治にはカネがかかるから、これからも大変やろ。古い話だが、徳川吉宗と徳川家茂(14代)は紀州藩出身で、そのために和歌山では税金の取り立てが厳しかった。

その影響が今も固定資産税の高さになっていると聞いている。どの家も、小さな田の字にして、こじんまりした百姓屋に統一されていた。倉など建てられなかった。田んぼの表記も、面積の十分の一、の名前になっている。5セ(150坪)は、五升米(ごしょまい)という風にな。この計算が分かるかな。とにかく貧しい社会を強制されたものよ。我家では羽織の内側が派手派手になっていた。さて風力発電の被害である。

日本だけが低周波音の被害、風車病を言葉に出来なくなっている。タブー、というより被害者差別だ。優生学でな、障害者なんやで、と蔑視の対象にされる。それと風車のある地域は異界とされる。差別地域だ。低周波音を測ったらアカンのやで。健康被害の原因が、風力発電の発する有害な低周波音だ、なんて言ったらエライことになる。初めから何が悪いのか、原因は何か、みんな知っているんだよ。水俣病と同じ論理だ。

それでもな、人を弾圧すると簡単にロボットになるんだ。その哀れな風景が面白いという。被害地に住む人は倒錯、欺瞞、自己陶酔して喜んでいる。東北地方の風力祭りで「風力日本一」と幟旗をはためかせて行進する。あんな感じやな。由良町なんかすごいで。隣町でも同じ神経やけどな。かつて原発反対運動があったけど、今の原発運動と同じで、すっかり中身も思想も変わってしまっている。

ディープステートdsだという人がいる。いったい誰が風力やっているんよ、という疑問は、今も変わらない。風もないのに風力が回っている。演出、詐欺でしかないのに、誰も反抗することはない。従順な家畜になっている。たくさんの被害者が苦しみながら死んだやないか。

それを笑うか。やはり私は善人でしかないのか。一人、風力発電の被害を訴える。このままで済ましてよい被害ではない。風力被害の論理を、真実の情報を伝えるつもりだ。土砂崩れでも、地下水が濁るでもない。そんな安手のペテンに騙されるか。風力発電を撤去してくれ。それからだ。