どちらが正しいと思いますか。

この比較テーマも、何度も書いてきた。地球温暖化説の本もたくさん紹介してきた。福島原発では今も1グラムのデブリも取り出せずに、お手上げ状態だ。汚染水とか、毎日、有害な放射能があるんでしょ。世界が注目しているのに、いつになったら解決の糸口にたどり着けるんだろうか。正確な情報はない。誤魔化しの自然エネルギーだの水素製造だのと言っていたけど、その後の検証も発展もない。すべて嘘八百だったんと違うか。

福島沖の洋上風力とか、汚いカネを分け合った。責任とか展望の言葉はないんかい。政治家にやる気がないのはなぜなんだろう。原発事故から12年が経つ。いくらなんでも結論はあるだろうに。私は由良町で一人、風力発電の被害を訴えている。分不相応な役割に一人泣いている。悲惨な被害者たちの死を見てきたから、弾圧の恐ろしさを体験したから、そして私も低周波音の苦しみに死にそうだからよ。

今から45年前、昭和の終わりにバブル景気があって、公害華やかりし時があった。光化学スモッグ、石油コンビナートの異様な臭い、水俣病やイタイイタイ病が新聞記事を賑わしていた。日本人が元気だった。水俣でも富山でも、たくさんの被害者が死んでいるのに、カネとの区別がつかない。慰霊碑を建てたところで、住民らの精神性は変わらない。だから世界用語として「MINAMATA」、「 FUKUSHIMA」と呼ばれているのに、その特殊な弾圧政策が日本人には理解出来ないでいる。

言うたらアカンのや。単純に、心の空っぽさを見抜いた人は多いだろう。ヒューマニズムがない。社会のリスクだという。受容義務だと由良町では聞いた。ホンマかいな❓ と思うのは私一人かい。これらの本を読んでみて、いったいどれだけの日本人が再エネのアホらしさに気が付いたことだろう、と思う。大体、こんな本を買って読むのはごく少数よな。今の日本人は本を読まない。

とくに由良町では「オマエ、本なんか読むからそんなヘンなこと言うんやで」と笑われる。私とは人種が違うんだよ。奴隷化、囚人となった人々の姿を見ている。水俣の人たちと話すと、いかに歪んだ心理になっていることかと共通した有様に気が付いていた。お上、様様よ。アンタも人間やろ、と喉元まで、出かかった言葉を飲み込む。家畜かい、と彼らの社会性に驚くのだ。

べつに本を読んで知識を持ったから、という訳ではないけど、何も知らないままでも、正邪の判断はあるだろう。政府や政治、行政はウソをつく。太平洋戦争の時の大本営発表はウソだったでしょ。ハワイの真珠湾攻撃と、終戦の詔、だけが心に残るか。よくやった、と誇れるか。戦艦ヤマトは何だったのかと思わんか。時代的には、世界で同じようなバカやっていたから、と言いながら、原爆の被害はすごいやないか。

そこでも被害者差別が酷かったでしょ。その心模様が、水俣でも富山でもあったし、風力発電の弾圧にも見てきたと訴えている。「被害を訴える者は精神疾患のもの」か。日本人には何とも抵抗感はなし、被害地では皆大喜びだ。とくに役場ではな。権力機構の中で、これほど冷酷な社会風土を見たこともない。人に対する思いやりとか同情はないんかい。と、私とは違う価値観の連中と向き合ってきた。

自称・被害者たちの変心、裏切りも凄かったけどな。人はこんなにも弱いのか、と思ったよ。自己家畜化するんやね。それに由良町の人たちが襲い掛かる。アホよら、と。最終的には私に対する嫌悪になっていた。へーえ、と観念しているかな。ところが日本全体を見回しても、私のように風力に反対・抗議する人は誰もいなくなっていた。あるのはウソつきばかりよ。あるいはお花畑とかな。

私たちは土砂崩れが心配なだけなんです、と言っている。アホかいな。たぶん、ここに紹介した本など読んだこともないだろう。カルトになった環境運動会だ。タクトを振っている悪党がいる。それもコマだと分かっている。本当はさ、私より頭の良い人はいくらでもいるはずなんだよ。今回はそれが見当たらない。人当たりの良い八方美人ばかりで、いや、私から見れば敵でしかない。誰も被害者を助けないから。

彼らは、あざ笑いだけだった。きっと優越感なんだろう。自分が加害者の側にある、権力側に属する安心感だ。私の卒業した和歌山工専や長岡技大でそのことを知った。なんというオチぶれよ。せっかくの本だけど日本人には読まれない。それでも、どちらがいいかと選択するのは日本人の義務だと思うのだ。今のところ、問題の大きさを取り違えてはならない、という悪魔言葉に踊っている。みんなと一緒。私だけが山中で一人みかん採りをしている。なんとかまだ生きている。人間意識だけは捨てないつもりだ。