ドイツ人の考え方

大学ではドイツ語を3年勉強した。副学長から半年ほどマンツーマンで教えていただいた。おバカな私のために、なんともったいないことだと恐縮したものさ。あれから45年経つ。すっかり単語も会話も忘れているけど、ドイツ人と話すとなんだか会話が弾む。フランス人には怒られるか。近所に住むドイツ国境生まれのフランス人は、もうドイツ語は忘れました、と意味ありげに言う。

移民は別にして、本来のフランス人の恨みは健在だ。そのわりに、東ドイツ、エルベ川周辺の人は奇妙な憧れみたいなフランス感を持っている。聞いてみたら面白い。我々日本人だって「ドイツに習え」と言われると、無条件に「ハイ」と応じてしまう。ドイツ車は有名ブランドだし、ゲーテやヘルマンヘッセは青春の思い出だから。今回はユダヤ人の書いたアウシュビッツの体験談を読んだ。

まだ子供だった主人公は運よく、機敏に生き抜いた。何が生死を分けたのかと、しきりに分析して、ドイツ社会の不条理を説く。同じ内容の本に『夜と霧』があって、こちらは専門の哲学者が難しい顔して書き記す。それをまた、『自由からの逃走』が理由を解き明かす。私も結構しつこく読んだものさ。いや、もっとたくさんのドイツの本を読んでいる。なぜなのか自分でも分からないけど、明治政府はフランスじゃなく、ドイツの制度を導入したから、その感覚かもな。

その反動かしら、日本人はパリに行って、1週間か十日ほどそこでブラブラして帰ってくる人が多い。最近は移民が嫌だと言って、周辺の観光地に分散している。そろそろ狙われているんじゃないか、と心配する。フランス人と言っても移民は怖いからね。東側の人はヨーロッパ人じゃない。日本で言えば、朝鮮系とか中華系とか、日本人が見たら分かるけどな。それを中国・台湾の人と眺めながら、あれはもっと奥地の人だね、と言っては身振りや荷物で判断する。

中国人は皆荷物を担いでいるでしょ。何が入っているんだろうかね。何度か中国人に聞いてみたけど、返事はない。国民性らしい。「小さな厩番」はドイツを捨て、二度と帰らないと誓ったのにケルンに帰って両親の痕跡にたどり着く。そこでドイツ人特有のファンタジーを見る。もし自分がユダヤ人でなく、ゲルマンだったとしたら、もしかしたら彼らのように何も知らされずに社会の一員として行動したかもしれない。

ナチスは悪いけど、その子供や孫に罪を問うのは間違っている、と書き連ねるのだ。あーぁ、知っているのに知らん顔。今もユダヤ差別はそのままだ。その事実の上に、こんなこと書けるなんて大したものだよ。それでな、やっとフランクルやフロムの書いた言葉の意味が分かったように思う。こんなモノに「ドイツに習え」なんかよく言うで。日本でやっている御用学者や環境運動家の言っていることは、じつに恐ろしい大量虐殺、ホロコーストに繋がっている。

ドイツ人は、今はもうネオナチなんかないですよ、と言っている。しかしなぁ、選挙結果を見たらナチス系の政党が第一党、30%になっていた。移民排斥だという。ユダヤもイスラムもあるかいな。知っていたよ、ドレスデンでは5人に1人がイスラム移民だと。ドイツ語が通じない。まるで別の国みたいな地域がある。暴行、反乱、何でもアリだ。被害者は堪ったもんじゃない。水晶の夜、焼き討ちまで、もう間もなく、だろう。

歴史は繰り返す。日本でもそうでしょ。無責任な政治が罷り通る。行政のアホらしさよ。このまま戦時体制になっても、日本人は誰も反対しないだろう。その支配力の強さを風力発電の被害で見た。人々に意志や思考はないんだよ。上から言われたとおりにしかできないように決められている。何がルールだよ。風もないのに風力が回っている。由良町の狭い谷あいの集落に、有害な低周波音・空気振動が襲い掛かる。

たくさんの人が苦しみ死んだのに笑いものだ。みんな知っていてやったんやで。殺人事件やないか。それでもな、東北の各県で見るように、たくさんの風力被害者を弾圧して喜んでいる。ペテンのエセ反対は、全国共通でな、行政と連携して被害者を閉じ込めて消している。強制収容所だ。アウシュビッツの最終処理場なんだよ。そこで生死を分けるものは何かを見てきた。手先になるモノでも、そこに住んでいたら死んでいく。

タダのアホやけど、それが本人には何のことやら分からない。被害感なく、本当に分からないのだ。でもそれって、これまでの風力発電の被害を振り返れば、世界の風力反対を見れば、当たり前の被害だよ。分からないんじゃない、知らないことはない、人としての危機感も意思も無いのだ。逃げ出す人はいるらしいけどな。これらの本のように、何が行われているのか、philosophyがない。

すっかり動物になっている。家畜なんだよ。それが強制収容所になっているという訳だ。仕組まれた罠なのか、自己破壊なのか、もはや落ちるとこまで行くしかない。私は違うからね。自由に一人、生きていくつもりだ。