狂気は、個人よりも集団に多くみられる。戦争になるとよく分かるわな。ただ、アメリカなんかでは銃乱射事件があるから、そんな目にあったら逃げるしかない。ロシア人と話した時、「ウクライナを日本人はどう思いますか?」と聞かれたことを思い出す。今まで行ったこともないし、ウクライナ人と話したこともない。
それで「ウクライナの銀狐」、どこかのマンガで見たような、ズルイ性格の人が住んでいるような、と答えていた。相手に通じたものかどうか自信はない。何人かと同じ話をしたから、ロシア人にとって、ウクライナは特殊な、日本人からはどう見られているんだろう、みたいな、気がかりがあるようだ。とても聡明なロシア人もいれば、先祖はポーランド、フィンランド、と答える人もいる。
それを個人的にはいい人なんだけどな、集団になると怖いから気を付けるようにと言われたものよ。今日の産経記事には家畜の歴史があって、野生動物は家畜にされると脳が小さくなり、従順になると書いてある。そうだろうな。私は野生の猪をたくさん捕まえて殺したけれど、当然に凶暴な抵抗に難儀したものよ。これが家畜の豚なら、黙って殺されて食肉にされたことだろう。
獣害駆除。みかん畑を守るためだ。獣害と言っても、インディオやアボリジニのようにカンガルーと同じようにして駆除される人がいる。アメリカインディアンもそうだったと聞く。ユダヤ人のホロコーストは有名だ。日本でも当然同じような殺戮はあっただろう。ニーチェの言葉として、「集団、党派、民族、時代にあっては通例である」の指摘は的確だ。
この十年、風力発電の低周波被害ではたくさんの被害者が弾圧されて消されてきた。海外では風力被害に対して、たくさんの抗議運動が起きている。しかし日本ではそんなもの一つもない。いや、あるにはあるんだが言葉をすり替えてもみ消してしまうのだ。家畜化、従順化して黙らせてしまう。「被害を訴えるものは精神疾患のもの」として被害者を組織的に弾圧するんだから堪ったもんじゃない。
今ではすっかり私一人になっていた。被害者でさえ、私を憎み無視するようになっていた。周囲には何人もの被害者が苦しみながら死んでいった姿を見ているのにだよ。脳の縮小化としか思えんわな。私は添付した海外の抗議デモの数々が正しいと思っている。答えは初めからある。カネ儲けやイデオロギーのために、人を苦しめて殺して嘲笑う、なんてやり方には毅然と抗議してきたつもりだ。
ところが私の周囲の人々はそれが嫌悪の的として、どうしても許せない奴になるらしい。風力裁判では環境運動家をはじめとして人々は大喜びした。誰一人、おかしいじゃないか、と警察や裁判の弾圧を言葉にするものはいなかった。「風力の被害など聞いたこともない」というのだ。これもあちこちで、何度も聞かされたものだよ。
当初からジャーナリストの言葉として、「ヒツジにされるんやで」と風力発電の被害は伝えられていた。全国には私以外にも本当の被害が見えている人はいる。しかしなぜかそれを言葉にして「風力発電を止めろ」(Stop wind turbines !) という日本人はいない。家畜化されているんやね。金儲けのダシにされて喜んでいる。これだけ国際化が進んで、世界の情報が飛び交う中での生き残り作戦だ。
日本人の会話は内向きで、閉塞感を言うものはない。堂々巡りよ。私もとうに高みの見物になっている。下界に降りて行っても、そこには話の通じる人はいないのだ。これが寂しいな。一人、読書の日々が続く。良い本は大事にするし、そうでないのは捨てている。君子危うきには近寄らず。やっと甘夏と八朔を採り終った。ジュース柑、加工柑が半分にもなった。経営の危機だよ。