我家の裏山には共同墓地があって、盆には墓参りの人でにぎわっている。昔は墓の数も少なくて、この50年の間に3倍くらいになった。杉の木を削った簡単な墓標はなくなって、石造りの本格的な墓ばかりだよ。丸い小さな石を記しにしたものなんか、今はもうどこにもない。皆さんお金持ちになったようだ。
我家の古い元々の墓には慶長の年期が刻まれていたと聞く。それが風化してボロボロになった石の塊が傍に置かれている。「これが値打ちがあるんや」と叔母や大叔母が言っていたものよ。今年も何とか墓参りをして盆の準備を始めている。墓参りに来る人ってさ、いろんな表情を持っているのを知っているかい。ヤクザになってどうしようもなく親の墓に毎日参っていた人を見ている。
「墓参りをするとさっぱりするな」と言っていたものよ。墓場の周囲は我が家の蜜柑畑だから、百姓仕事していると、どうしてもそんな人と世間話の一つもする。もう60年も前、祖母と草刈りをしていた時、敵意を満面にした人が通りかかった。「あんなの、いいことないやろ」祖母にもそれなりに世間体があったんだろう。
何も言い返すことなく俯いていた。とても慎重な人だった。同じ場面が繰り返される。我家は今も熊野街道沿いに300坪の百姓家を構えている。この街道を通って、昔の人は熊野詣をしたんだろう。60年前はこんなに家が建て込んではいなかった。いや、もっと昔は一族郎党が一緒に地域に住んでいたというから、時代のままにということか。
今は私一人がひっそりと暮らしている。私を知らない人も多くなっているだろう。なんせ人付き合いが苦手で百姓仕事で忙しい。まだ三丁歩ほど作っているかな。愚痴を言っても始まらない。祖母もそういった人のことをとやかく言わなかった。祖父は坊ちゃんらしく大らかにボケていた。大変な時代を生きたのだ。風力発電の被害。地域対策。私に対する差別と迫害。
こんな家に長男として生まれなければ、きっと理解できなかったと思っている。旧家の人間が生きていくのは大変ですね。なんせ最後の一人になってしまった。このプライドが、次々と皆さんが裏切って行く中で、「風力発電の低周波被害で苦しんでいる。風力発電を撤去してくれ」と訴えたのだ。由良町だけかと思ったら、全国で誰も風力被害を訴える人はいなくなっていた。
これが海外の風力反対との違いだね。明治以来、我が家では誰も戦争に行かなかった。墓地には戦死者の墓標が林立している。そういうことかもしれない。風力被害でも、畑地区の谷口さんらは苦しみを訴えながら死んでいった。役場にも何度も何度も訴えたし新聞記事にもなっていたから知らぬものなどあるかいな。それでも私は一人生きている。
それが気に食わないんやろうね。あるいは煽る人がいるんだろう。せっかくの墓参りが不満の捌け口になっていたようだ。仲の良い人もいたんだけどな。大阪では墓地の前は商売が繁盛すると聞いている。千日前は有名でしょ。我家でも、おかげでいろんな人の表情を見た。今は特に珍しいとは思わないけれど、人とはそんな感情に生きているんだくらいに思っている。
墓地の前の生活か。役得でもない。当分、人付き合いは遠慮したいと思っている。今も昔も、生きていくのって大変なことらしいのだ。