由良町公民館の資料室で、下記の調査資料をもらって、説明してもらいました。
「幕末という特殊な時代に、特に身分差のある人と世間話をしたらしい。それを告げ口した人がいたのだ」ということでした。
なぜ、世間話をしたら悪いのか。私にはそれが分りませんでした。それで湯浅町に住む、菊池海荘のゆかりの方に事情を聴きに行きました。
海荘は守應の師匠です。菊池一族は南北朝の動乱で九州から大阪に逃げてきて、河内の垣内村に名を変えて暮らしてきたそうです。
我が家も南朝方で戦って、河内で滅んだ言い伝えがあります。楠正成の4男と5男に連れて帰ってもらったと。
由良町(由良ノ庄)に帰り着くまで高野山などを経て、数百年の時を要したとか(伝承です)。
それで海荘は、守應を可愛がったのかもしれないな、という話をしました。先祖が南朝方で戦ったという人は、ある特殊な親しみがあります。
たぶん私だけではないと思います。
当時、身分差のあるものが話を聞くときには、跪かねばならなかったと。
そのために二人とも、二百叩きの刑にあって、処分されたと。添付資料の『申渡』は、作り話、というか、今では笑い話にもならないものでした。詳細は控えます。
守應は海荘の計らいで、京都の公家の裏辻家に預かってもらうことになった。
この取り計らいが転機となって、庭田大納言に仕えることになり、岩倉具視や伊藤博文らと交流することになった。
菊池海荘の『風雲雑記』30巻には守應から送られてくるたくさんの手紙のことが書かれていて、今も解読が進められている。
人生、何が転機になるかわからない。私は由良町役場で、20数回の懲罰委員会と、懲罰議会にかけられて、畑中町長や議長、議員、職員たちから罵声と嘲笑を浴びてきました。
風力発電の被害に苦しみ、泣きながら死んでいった被害者が何人もいる事実を言ってはならないというのです。「そんなものは放っとけ」と強制するのです。
町長は、私が差別発言をした、などとも発言しています。守應の処分理由を見るまでもなく、笑止であることに間違いない。
ある大学の識者たちは、由良町はまだ徳川時代にあるのだ、と主張している始末なのだ。