理解できない役場の人たち

このページは既に由良町の人たちも大勢見てくれています。情報を伝える方も、たまに励ましのような言葉をかけられると嬉しいものです。そうでない人もいますが、何か事情があるんでしょう。

7/14日、やっと6月議会の編集委員会が終わりました。いつものことながら辛んどかったこと。風力発電の被害は分かっているのに、私を誹謗中傷する攻撃は止みません。利権以外に考えられないですよね。それが私を除いた全員だから恐れ入る。

6月議会の報告で紹介したように、「風力発電の被害」と、「南海地震の準備」について一般質問で答弁を求めました。

風力発電の被害調査については、いつものように、「保健師さんに相談してください」と無責任極まる答弁のみでした。多くの被害者たちは既に感覚がなくなって、動物的な生活になっていると思います。人は誰でもそれほど強いものではない。私はこの悲惨な状態が許せない。

南海地震の準備については、由良小学校の生徒を、目の前にあるコンゲン山か北山に逃げるように出来ないか。と訴えました。長年、由良小学校に勤務した教諭から頼まれたことでもありました。

由良小学校の周囲の地区は横浜地区と言います。歴史的に、これまで何回も津波を経験してきました。図面と航空写真を見て分かるように、周囲は小高い山々に囲まれています。横浜地区の人たちは、津波が来たときは小学校の横にある宇佐八幡宮に逃げました。

コンゲン山と北山にも逃げたでしょう。隣接しているので同じことです。宇佐八幡宮は2mほど高い敷地にあります。それで記録として、階段の4段目まで来た。とか、5段目まで来た、と言い伝えてきたものでした。

横浜地区の人たちは、津波が来たら全員、お宮さんかコンゲン山か北山に逃げます。これが私の知っている常識です。車のある人は、車を移動するでしょう。コンゲン山は高さが100mほどありますから上へ、上へと逃げられます。北山の方が畑があって、なだらかです。急峻な山ではありません。

ところが由良町の答弁は図面に示すように、国道42号を走って、2kmも先の興国寺まで逃げる計画になっています。小学生全員がです。200人ほどです。

逃げる途中は、ずっと由良川があります。もし津波が来たら、由良川を遡ってくることは明白です。

それよりも国道42号は幹線道路で交通量が多いのです。『大地震』、『津波』ときたら、ほとんどの人は腰をぬかすかパニックになって、平常運転はできなくなります。交通事故が起きるでしょう。

平時の訓練で「国道は広くて安全だ」、としても、大地震が来て、「さあ津波だ」、となったら誰でもうろたえて判断がおかしくなります。

このことを元教諭は心配して、私に発言してほしいと依頼しました。

編集委員会では、私の一般質問に対して、「子供たちを皆殺しにする気か」と私に怒鳴りつけた議員がいました。いつもの嫌がらせです。

答弁した教育委員長は、「ちゃんと点呼を取って、人数を確認しなさい、安全に逃げられるようにくれぐれも言い聞かせて、納得させてから行動してください」と言うんでしょうね。東北地震に前例があります。

その小学校では多くの児童がなくなりました。これは風力発電被害も同じです。水俣市から被害調査を絶対にしないということを学びました。

南海地震の準備については、もう一つ質問しました。福島県のいわき市の方から教えられたことでした。地震と津波にあってから、しばらくは地域の寄り合いで、各自がいろんなものを持ち寄って料理をしたり、情報交換をしたことがとても役に立ったということでした。ガスや水道、電気が止まりますから、普段の生活ができなくなります。

それが昔ながらの庚申講であったり、観音講であったりと、昔から地域に密着した文化的な、伝統的な集まりが、人々に安心感を与えてくれた、というのです。こういった昔からの行事は、実は非常時に人々が助け合えるように、あらかじめ準備された仕組みでした。

私は、教えられたことをそのまま由良町議会で話しました。そしたら、まるでヤクザ言葉の返事でした。「オマエが仲良くすればええやないか」、「ワシらは知らん」、でした。結局は答弁なし。

この教えを『議会便り』に片鱗でも残そうと原稿にして提出しました。議長の一言で、あっさりと「答弁のないものは載せられない」、とされました。

5年余り、長らく編集委員会に出席してきました。もともと大手コンサルタント業務の経験があったので各自のレベルがよく分かりました。風力発電の被害地域の人たちは、とうに『議会便り』の私の記述など見向きもしなくなっていました。輪ゴムで丸めて『県民の友』などと配られてくる毎月の資料は、そのまま中身を見ることもなくゴミ箱行きです。

来年、あと2回で委員会の組み換えがあります。私は編集委員会を卒業するつもりです。とても耐えられない、というのが本音です。少し前の懲罰委員会、懲罰議会の頃は、まだ感動があったものでした。まともな人は誰もいませんでした。別の方面で、役に立てるように努力したいと思っています。

楽な仕事なんて、ないですね。