外人さんと話していて、「武士とは何ですか」、「悟りとは何ですか」という質問になるときがある。フィゾロフィをやってます、という学生さんに多いかな。日本人で、こんな質問する人は、あまりいないわな。答えられる人もいないような気もする。テレビで人気の新選組も、内実はヒドイものだっただろう、と私は感じている。
たまたま由良守應はその時、京都あたりを徘徊していたというから、彼らと遭遇しているはずなのに、そのことは一つも聞いてはいない。守應も剣術ができたというのに、血なまぐさい話は一つもない。この新聞記事には武士道の解説をしているみたいだけれど、これも違うな、と感じている。
それは外人さんの感覚に接したからだろうか。ファイター、戦闘士と、武士がダブっているのだ。我家は平安時代に京都から都落ちして由良の庄で暮らすようになった。戦の度に出かけていたから、義理があったんだろう。もともとの名が何であったのか伝わってはいない。楠木正成と共に戦った時には由良姓になっていた。
私の祖母や曾祖母は正成の子孫である。これがどうも一般の百姓、農家さんとは違うのだ。それで外人さんには、武士の子は武士、百姓の子は百姓、漁師の子は漁師だ、と答えている。百姓は武士にはなれない、と。極端な話だが、東条英機が能役者の倅だと聞くと、酷い話だと思う。
勝海舟が譜代の家臣ではなく、出自の怪しい話を聞くと、そんなものかと歴史の皮肉を見る。直参旗本なんて役に立たなかったでしょ。武士とは、その場その場で作られた仕掛けだったんだろう。なにより武士と政治は捻じれていたのだ。だから私には妙な差別心があるんだろうと思っている。
南朝方で戦って滅んだ者特有の名残かもしれない。今、この時代に「わしら武士は、」なんてものを見るとゾッとするよ。風力発電の低周波被害では、いろんな場面を拝見した。被害の訴えを聞いて役場は、県庁は、政治は、どんな対応をしたのか誰も公開しない。
被害の隠ぺいである。「被害を訴えるものは精神疾患のものである」と書く政治とは何なのか。私は正直に、それは人間のすることではない。私は許せない、と判断した。これが差別ならそれもいいだろう。ソクラテスの弁明がやっと分かってきたよ。