私は由良町で風力発電の低周波被害、風車病の苦しさを訴えている。かつては各地で、同じ風力被害を訴えていた被害者たちがいた。それぞれに連絡を取り合い、由良町の谷口さん宅にも来たと聞いている。あれから10年、それらの人は死んでしまったんだろうか。低周波音被害者の会の窪田泰さんは、ヘンな人が多かったし、それぞれに大変だったんだよ、と被害状況の深刻さを伝えてきた。
基本的に被害者は一人で苦しむことになる。重症者は100人に一人か二人くらいだろう。風力発電が建設される地方の田舎では、人口密度が極めて低い。誰か同じ症状に苦しんでいないかと探しあぐねても、田舎社会特有の閉鎖性、偏見にさらに人災が襲う。他人の不幸は蜜の味。面白くてならないのだという。
これが都会の隣近所なら関心も薄いだろうが、田舎なら途端にその人を貶めて勝ち誇ることになる。ヘンッ、高校も出ていないくせに、とな。憎しみが爆発する。役場の手先が被害を否定するともう我が世の春を謳歌する。やっと自分が認められたのだ。そして被害を言う人が否定される。分断作戦。引きはがしの一コマだ。twitterを見ていたら、添付のようなのが引っ付いていた。
たまにこんな嫌がらせが結構ついてくる。被害を訴えるものには、こんな弾圧が繰り返される。環境省のお墨付きがある。この紋所が目に入らぬか?というわけだ。環境省の報告書には、風力被害を訴えるものは精神疾患のものと書いている。やったね。国の法律だよ。控えおろう、というか。環境省は、延々と風力発電の低周波音被害を否定している。
世界では珍しいことなんやで。だから日本だけ、「Stop wind turbines !」の言葉がない。普通は、地域の人が被害に遭って苦しんでいたら、何があったんだと心配するし、不安にもなるものだ。それが被害を訴えるのはその人の病気、持病なんだとする。障害者だと断ずるのだ。由良町の協定書には、「風力発電の低周波により付近の住民に苦痛を与えない」と書かれている。
笑えるじゃないか。ここまで悪に固執する理由は何だろう。そして人々は、なんでそんなに面白がって喜ぶんだろうね。同時に憎しみを抱くんだろう。今や私一人に憎悪は収斂する。由良さんのせいでこうなったんだとする。何か悪いことがあることは感じているらしいのだが、それを言葉にしない。由良守生が悪いのだと笑うのだ。聖書にそんな場面がありましたなぁ。
それが民衆の本質であった。古代も現代もな。youtube動画に「morio yura」でアップしているから聞いてもらえないか。各地の自称・風力運動とは全然違うことを訴えているつもりです。谷口さんの弁は環境運動家の修正が加えられている。山本女史の言葉にあるように、自分たちが、今、どんな状態に置かれているのか、それをまず自分自身が知らなければ始まらない。
風力発電の被害とは、誰が見ても明らかに簡単なトリックで覆われている。日本人はアホでしかなかったのだ。それを汐見文隆医師はたくさんの冊子にして伝えてきたのだ。最後は由良町のことを書いている。h19年に由良町に来て勉強会をしたことを覚えている人もいるだろう。阿戸地区で30人ほどが出席したと聞く。反発、拒否、共感は得られなかったようだ。
風車が建たなくてよかったというのに。風力は水俣や福島と同じことなんやで。社会の破壊だよ。風力裁判はもっと人々に知られてよいだろう。警察がいかに被害者を騙して弾圧したことか。命令した人がいる。手先となって、嬉々としてウソ話に講じた人がいる。こんな社会でよいと思うか。それを人々は生贄の様にしか思わないのだ。組織的な弾圧だよ。
死んでいった被害者の身になってみろ。泣き叫んでいたで。なんでそれが面白いんだ。ということをもう10年もこのページで書いてきた。早く二冊目の『風力発電の被害Ⅱ』を書かねばと思っている。書いては没にして、の繰り返しよ。風力被害地になるとさ、とくに私一人が被害を訴えているでしょ。人間の浅ましさをこれでもかと見るのだ。低周波被害者になると感覚が敏感になる。
精神面でも、相手の言葉が、凍り付いたように突き刺さる。だから大概は、被害者になるとヘンな人になって苦しむんだろうね。私なんかは飛びっきりの変人だろうて。「なんて言われているか知ってるか?」とさ。知人は皆さんそう伝えてくる。まだ私は生きているからね。被害に死に絶えた人とは生死を分けた。その理由は私のプライドにある。先祖に感謝だよ。
親が生きていりゃよかったのに、とつくづく思っている。負けたらアカンで、と。