今朝の産経記事を見ていて、私が学生時代の時にたくさんの中国人留学生が来ていたことを思い出していた。今も変わらないだろう。中国人の先生も同伴していて、国を挙げて日本にやって来たのがよく分かったものさ。彼らはとても優秀で、私の卒業研究の論文も、大切な差分方程式、ルンゲクッタの計算で教えてもらったものだよ。親切な人だったと記憶している。
おかげで何とか技科大を卒業して、その後も仕事内容が難しくて分からないと教えてもらっていた。同じ信濃川の流量計算だったから、話がしやすかった。彼はその後、教授になっていて、今も活躍しているはずだよ。スパイねぇ。そうとも言えるし、国同士の了解でもあるし、インテリジェンス的にはどうなんだろう。日本人は確実に負けてるわな。それは単に数が多いというだけじゃない。
中国人意識を振りまかれると、日本人は退散するしかない。敵わないのだ。札幌の駅前を歩いていて、すぐにそれと分かるじゃないか。東京でも同じでしょ。颯爽としていて自信たっぷりに、高そうな衣服、ファッションじゃないか。日本人は俯いて、トボトボと歩いている。ドブネズミ色。それが日本人カラーだよ。さて風力発電の低周波被害に戻る。
添付の協定書は由良町の各自治会、区長との協定書だ。低周波により住民を苦しめないと書いてある。初めから分かっていたんだよ。だから騙す意思をもって、被害者になるだろう人々に対して、こんな文面を示したのだ。これは全国共通だから、国策として流通したんだろう。この文面と同時に、環境省の報告書には、風力被害を訴えるものは精神疾患のもの、と書いている。
この酷さよ。そして由良町に派遣された環境運動家たちの喜びようよ。弾圧としか言いようがないじゃないか。今、「由良町、風力発電被害」と検索すると、当時の私の訴えたことがたくさんアップされて並んでいる。ウソつけ、と怒りを露わにするのは私だけではあるまい。なんでそこで地域の人々が、弾圧する側になってしまうのか、それが驚きだったのだ。
いや、被害者でさえ、「私たちは風力発電には反対ではありません」と繰り返すようになっていた。それぞれに、同じ言葉を同じ順序で話すものだから、まるでオウムだよ。「オーストラリアのように人の住んでいない所なら被害はない」とかさ。実際はオーストラリアの風力被害は有名になっていたから、この言葉の出所も怪しいものだ。
すべては仕組まれた罠に人々がヒステリックに踊っていた。共通の敵として、私の追放が明らかにされていたのだ。村八分どころか、あちこちで罵声の嵐よ。「出て行けっ」とどれだけ叫ばれたことか。それでもな、その人らが死んでしまうと、後にはなんかヒンヤリとした空気が木霊する。声じゃない。恨みでも呻きでもない。虚無。
そうだ、何もかもウソの世界で踏み潰されて消された魂の痕跡みたいな空白よ。死人に口なしという。実際に低周波被害に遭うと頭をやられるからね。そういう意味では環境省の精神疾患の表記は合っているのかもしれないし、その現実を確認した環境運動家たちはそんな弱者となった風力被害者なんぞ、たわいもなく踏み潰して雄叫びを上げていた。まるで映画を見るようだったよ。
スパイ工作員がいた。各地の風力被害地には、その地域に応じた悪魔がいた。畑地区でも門前地区でもな。全国的に見ても、「考える会」の言葉を見ると、被害者がどうしたという話はないでしょ。面白半分、オチョクリなんだよ。誰一人として、風力発電の低周波被害で被害者がいて苦しんでいる、なんて発言はなかったのだよ。あってもそれでどうしようという言葉はない。
刺身のツマにもならない、誤魔化しのフレーズであった。笑いものにして喜ぶだけだったのだ。これが海外の風力反対運動、抗議デモと、決定的に違うところだ。正反対。真逆なんだよ。なんで風力被害が土砂災害なんだ? 笑えるじゃないか。彼らは恥ずかしげもなくそんな言葉のすり替えを繰り返す。水俣病の時の。
アミン説、亜鉛説、ウイルス説、日本軍の爆弾とか、遺伝病とか、散々にその汚いやり方を見たじゃないか。最初から分かっていたことなのにさ。定性分析、定量分析。こんな対応は初歩的な常識だよ。初めから常識を否定して、ひたすら被害者を弾圧して殺していた。由良町の風力被害と同じだ。よくも誰も怒らないものよな。私だけなんか。大本営の発表の大嘘。
76年前の日本では、そのアホらしさを共有したやないか。爆弾抱えて自爆攻撃までした。その狂気を今も繰り返す。生贄が必要なんかい。アホにされているだけなのに。日本人も世界の価値観を知ろうやないか。命の大切さ、何が大事なのかを分かろうぜい。