ブログの方に「由良守應」の本が出たことを書きました。ちょうど今日の産経新聞に岩倉使節団の欧米視察の説明がありました。田舎者丸出しの守應が、よくも歴史的な事業に参加したものよ、と驚くほかありません。
由良の門前村にいてはとてもかなわぬ出来事でした。二百叩きの刑にあって和歌山から追放処分にあったことは神様の思し召し、采配であったのだ。
実際は、ちょいちょいと帰ってきていたそうで、どうしても由良の地が忘れられなかったと伝えられています。それで東京で稼いだ金で、田畑を買い集めていました。
明治の初め、英語やフランス語をどのようにして習ったのか、誰も知りません。岩倉具視一行を各地で案内するための会話力、コミュニケーションも必要だったことでしょう。
後年、陸奥宗光外相を支援する基盤もこの辺から窺えます。さて風力発電被害です。守應も子供を慶應義塾に入れていますから、当然、福沢諭吉を知っていたと思います。
「議論の本位」を見誤ると亡国に至ります。文明開化といっても今も同じ理屈です。「軽重、長短、善悪、是非」議論の本質を見つめてください。
再エネブームだといって、権力を嵩にきて威張る町長や職員、議員たち。それが彼らの品格でした。弾圧される風車被害者たちは簡単に人の尊厳をなくしていました。
これほど脆いものだとは思いませんでした。もう死んでしまったからね。原発の被災地でも同じ弾圧があると聞いています。
環境運動家の軽薄な忖度が被害者を迫害します。なんせ行政の提灯持ちだからね。どちらにせよ、結局、逃げ出した人が賢かったのだ。
被害に苦しむ人がいることは誰でも分かっている。風力発電の電気なんて役に立たないことも、山々の尾根を削り取ると大量の土砂が下流に流れ出して水路や河川に滞積することも分かっている。
何のために風力事業があるのか。再エネ促進賦課金2兆1千億円、建設補助金1兆円のためでしかない。電気代が安くなることも、石油や石炭の使用量が削減されることもない。
あとは、嬉々として被害者を弾圧して喜ぶ卑劣なおべっか使いの嫌がらせだけが残る。実はこの嫌がらせのせせら笑いが目的として露わになっている。
環境省の毎年のように出されている風力事業の報告書だ。恐るべき人間の退廃が毎年のように書かれている。
水俣病の教訓がこんなところで見事に繰り返されている。日弁連が風力を推進している。和歌山の弁護士は全員、風車被害を否定して風力を推進している。
全国的にも裁判が出来なくなっている。被害者を無視するだけでなく、精神疾患だと言ってバカにすることが面白いのだ。
医師たちでさえ被害者に、「病院へ行け!」と叫んでいる。そこが病院なのにね。汐見先生の「貴様に医者の資格はない。医者なんかやめてしまえ」と怒鳴ったことが懐かしい。
社会が、とくに貧しくなったとは思わないが、デフレが続き、息苦しさの吐け口にされているんだろうか。
風力発電を建設すると、その地域社会は壊されて、引き裂かれてしまう現実があります。そこに住む住民がそうなってしまうのです。
人が被害を訴えて苦しみながら亡くなると、手を叩いて喜びますか。笑い声をあげてバカにして喜びますか。ワシらは関係ない、と。