ドイツの風力発電批判

ドイツ語でKein windpark(風力発電はいらない)と検索すると、ドッサリと風力被害の反対運動、抗議の声が出てきます。環境省や地域の行政、環境運動家たちが言っているような「ドイツに習へ」のスローガンが、いかに嘘っぱちであるか分かります。10年前、環境運動家たちが由良町にやってきて、「ドイツでは上手くいっている。

どうして日本では問題になるのかそのことを考えよう」と真剣に話していたことを思い出す。被害者が苦しんで死んでいるのに、よく言うよな。環境省の報告書にも、ドイツの風力発電をしきりに賛美していた。目にした関係者も多いだろう。たまたま私は大学で、ドイツ語の講義を2年も取っていた。キーワードを入れて検索してみたのだ。ところがどうだ。

彼ら、風力被害で由良町に来る環境運動家たちは嘘ばかりだったのだ。つまり地域対策で動員されていた連中だったのだ。今もそれらは各地の自称、風力反対運動で同じことをやっている。被害を訴えるものは障害者で、自分の症状を言っている、というのだ。そして風力被害とは土砂災害である、と声高らかに歌っている。

全国共通だから、すべては国策で心理コントロールされていることが分かる。各地の主催者も全く同じ中身で破壊工作を仕事でやっている。北朝鮮の拉致事件と同じで、地域には必ず協力者がいて、被害者を見つけては消していたのだ。そして被害者を笑いものにして喜んでいた。それでも私は、日本にはなぜ、こんな批判精神がないのか不思議でならないのだ。

イラスト漫画で、こんな批判ぐらい誰でも分かるだろう。まるで徳川の封建時代やな、小林先生らが由良町を視察した時の感想だ。私も由良守應の追放処分の理由が気になっていた。安政の大獄だ。吉田松陰らは何で殺されたのか、ということだ。風力裁判で散々に苛め抜かれたからね。75年前の戦時中の大本営の嘘八百も気になっていた。各地には憲兵がいてにらんでいたでしょ。

これは日本独特の社会風土なのか。それを京都大学名誉教授たちはあざ笑ったのだ。マイナーな問題だ、と。草莽崛起、というのも、そろそろ馬鹿らしくなってきた。「雉も鳴かねば撃たれまいに」それが日本人の姿であった。たまに海外の人たちと話をする。彼らが私を対等に扱ってくれるのはこんな矜持があるからだろうと思っている。私は家柄だと思っているが、