カブールの恥辱

和歌山高専卒業時に校長だった市原松平さんは硫黄島の生き残りだと言って、よっぽど運が良かったんだな、と何度も言っていた。「私はね、土質が専門だから今でも教科書なしで講義ができるんだよ」と学者らしく、教育者らしく語り掛けてくれたことを思い出す。

後日、戦闘を経験した元軍人の人たちと話し合うことがあって、それぞれに共通しているのは、運が良かったということ、その時の顔つきがどうも厳しい修羅を思わせる眼光を思わせた。記事には米軍をパロディ化したアフガンの写真が出回っているという。そりゃそうだろう。あれだけの軍事力の差がありながら、アフガニスタン人たちは、まるで戦う意志などなかったのだ。

アメリカ人もアホらしくなるわな。実際に戦争して、精神的にダメージを受けた米兵はどうしたらよいんだろう。あまりに酷い結末よな。それにしても日本の記事よ。大使館員は、さっさと逃げ出していたというのだ。これが「カブールの恥辱」でなくて何なのか。韓国だからこそ、こうして親切に教えてくれるのだ。

76年前の関東軍もそうだったからね。エリート軍人がたくさんいて温存されていたのに、いざ、となると逃げ足だけはみな早かった。シンドラーズリストや杉浦千畝も読んでみた。その時だけ、一瞬だけだが光輝いた、というのだ。彼らのその後の人生は大変な(苦しい)ものだったらしい。本人はどう思っているのか知らないけど。

しかし当事者にとっては、まるで神が現れたかのような光輝く時間だったというのだ。奇跡の人、というだけはある。そこで今回の日本の大使館の有様だ。今の日本を象徴しているではないか。私はこのページで、風力発電の低周波被害を訴えているけれど、行政や政治のなんという無責任なことよ。

被害者に対する憎しみ、弾圧はそれほど面白いのか、ということだ。倫理なんか、とうに無くなっていた。風もないのに風車が回っている。見せかけの演出だ。風車病に苦しむ人がいて、助けてくれと言われているのに、ひたすら被害を否定してあざ笑っている。何が面白いんだろうか。各地の、エセ風力反対運動では、「土砂崩れが心配です」というデマを繰り返している。

被害者を否定して消し去る工作運動だ。初めからジャーナリストたちは、彼らが何者で、何を目的に集まっているのか、それを知ることが先決でしょ、と言っている。本当は皆さん、何もかも知っているのだ。知っていて、被害者を迫害して消し去って、何かの腹いせに笑いあっている。田舎者にとっては至高のひと時なのだ。社会の崩壊よな。

アフガニスタンには、ごく最近までひなびた平和な時間が続いてきた、と聞いたことがある。何がここまでの地獄絵にしたんだろうか。由良町でも、風力発電の被害で、同じような惨劇があった。それでも人々は「関係ない」と言っている。恥ずかしい、ということを知らないのだ。

アッ、この言葉は例の谷口さんが最後によく言っていたものだよ。つまるところ、人の思うことはそう変わらない。