「私は人間です」と訴えよう。

『狂った果実』という歌があった。50年前だったか、『ビリーホリディ物語』の映画があった。大変な差別と虐殺がアメリカにはあった。その前にはインディアンを駆逐したからね。ジェロニモ、なんて有名でしょ。どんなに抵抗したって、皆殺しにされる。それが国策に反抗する者に対する現実だ。加害者は罪には問われない。これも不思議な社会トリックよ。多数決で殺人が行われてはたまらない。どこかで決着するメドが必要になる。

正直言って、私にはビリーホリデイの歌はよく分からない。昔も今も、その歌の良さが何なのか、暗いな、としか思えないのだ。100年前の事だからね。価値観とか、社会情勢が違う。それでも虐げられたら、人としての自尊心が鎌首持ち上げるわな。人間否定されたら、それは当然の結果になる。風力発電の被害を見てきて、風車病、被害者に対する弾圧、に水俣病と同じやな、と書いてきた。どの公害地域でも、そこの社会はコテンパンに破壊される。

被害者の、なんと惨めなことよ。日本人はそんな歴史を積み重ねてきたのだ。地域対策もマニュアル通りなら、被害者側にも、同じような対抗心が出来てくる。人間のバランス感覚よ。どこでも被害者はボロクソやな。それほど公害の歴史は厳しく恐ろしい。日本では誰も近づかない。それを私一人がアホ役を引き受けている。士苟も正を得て斃る。私のタイプじゃないけども、成り行きでこうなってしまった。

全国で、あたかも風力反対しているのかと思ったら、「土砂崩れが心配です」という。アホらしくてさ。皆さんもそう思わないか。h24年の初めからそう言われていたから、本当は、全国にその実態を知っている人はいくらもいたのだ。いつもの御用学者を担いで、誰にも分からないグラフや数式を見せて、パチパチパチ、とやっている。なんやコイツラわ、と思ったんと違うか。「彼らは何者で、いったい何を目的にしているのか。

それを知ることが先決でしょ」と言われていた。ところが今は全く、そんな批判は受け付けない。カーボンニュートラルに向かってまっしぐらよ。【お花畑】の集会も、すっかりカルトになっている。プロの作ったキャンペーンのパンフを持って大賑わいだ。巧みな宣伝、地域対策が徹底している。これでは少々の環境意識があったとしても、表立ってまで「私は違う」と発言するのは難しいだろう。人数が集まらないと力にならない、とかね。

とうに低周波被害に遭って苦しんでいる人ですら、エセ反対に賛同して期待するんやで。黙らされて閉じ込められているのに、アホにされているのに、それが分からないらしいのだ。被害者こそ、私を恨み憎んでいるからね。それって方向が違うでしょ、と言っても通じない。私に対して怒りの言葉が襲っていくる。狂ってるなぁ、とよく思ったさ。全国の風力被害者から同じ目に遭わされた。精神疾患のものという。可哀そうにな、と今は思うしかない。

なんで偽物のペテン運動会に取り囲まれているのか、みんなと一緒、だからよいのかえ。何を知るべきか❓ お花畑や環境省の報告書を読んでも答えはない。仕組まれた罠だ。現実に被害があって、世界中で風力反対、抗議デモが引き起こされている。日本では、低周波音と健康被害は因果関係はない、と決められている。被害を訴えるものは精神疾患のものだと書いてある。この異常な事態に、誰も立ち向かえないのか。被害者を否定して虐待する。

被害者対策の悲惨なことよ。これは違うな、と感じないか。生贄、犠牲者が面白いか。再エネ推進の儀式かい。由良町では、誰もが目撃証人なんやで。なんせ目の前で、21本の風力発電が勢いよく回っている。かつて被害者たちの悲痛な叫びがあった。知らぬものなどあるかいな。幼稚な地元新聞にも記事になっていた。単純なパターン化された記事ばかりだけど、被害情報だけは全国に伝わったんと違うか。私を罠に嵌めて喜んでいたけど。

結局はその演出が、私をここまで連れてきた。メディアのアホらしさはどこでも同じだ。国策に逆らうものはやっつけてしまえ。そうかな、と私は行動する。答えは初めからある。破壊された人たちにはそれが分からない。フランス語で「non aux éoliennes」(風力発電はいらない)と検索して見て。少しググるとフランス全土の反対運動が出てくる。ドイツ語や英語での検索は、風力発電の写真やキャンペーンで覆われてしまっている。

それをかいくぐって検索を続ける。そしたら、これまでの反対運動がやはり健在であることが分かる。これが世界の常識だ。日本だけ、異常なプラットフォームになっている。すべて偽物の地域対策なんだよ。行政と、政治と一体となった環境運動会。ヤラセよ。これまでの知識を整理して判断したらよい。何が悪いのか。真実は一つだ。これほどまでに日本が転落しているとはな。少しは驚かないか。人間の本能やで。