再エネが破壊したもの。

インターネットのSNSでは、太陽パネルの自然破壊が姦しい。阿蘇山の草原とか、釧路湿原を覆い尽くすメガソーラーとか、結構な絵になるじゃないか。素晴らしい自然エネルギーと見るか、いや、自然破壊とするか、日本人には分別はない。政府はさらに再エネを推進すると歌っている。新聞やテレビには再エネを批判する記事はないから、被害感という反対は、もしかしたらフィクションなんかね。

あくまでもtwitter(X)内だけの一部の話題か。どうもすべてが作り話のように考える。地球温暖化対策、脱炭素、サステナブル、国連COPなんてもう破綻しているように見える。それにしても風力発電の被害が出てこない。風車病、低周波被害、前ページでは『死に山』の結論を解説しながら論じた。ニーナピアポントの『Wind Turbine Syndrome』と共に、アメリカ発の啓発だ。日本ではなかなか広まらない。

虫の声をめでる日本人、というサガだと汐見先生は言っていた。『左脳受容説』は、とてもよく出来ているけど、反論も多い。だってアメリカも日本も被害は同じだ。私は直接汐見先生から教えていただいたので否定する気はない。たしかに日本人には、低周波音に対する独特な感性がある。小川のせせらぎ、春の海、松風、虫の声、当たり前の風景じゃないか。それと台風シーズンになるとな、気分がすぐれないという人は多い。

その原因は自然界の低周波音だと今では観測結果と共に知られている。だったら、風力発電の発する低周波音にも敏感に反応する人がいるでしょう。それを法律を作ってまで、環境運動にしてまで否定する。滑稽なキャンペーンに人々は転落していく。御用学者に環境運動家のアホらしいことよ。そんなニセモノの権威に人々は覆われて洗脳されていた。被害者がどんなに苦しんで死んでも笑いものにされる。

弾圧、暴力にしてまで被害者を否定する狂いようを見ていた。全国どこでも同じ風景でしょ。再エネ。風力の何が悪いのかも日本人には分からなくなっている。発電している、とな。エライ高価な発電機なのに、誰も採算を検証しない。それよりも被害がある。世界中で抗議デモが行われているのに、じつに日本だけ、それがない。被害者をあざ笑うだけの珍事になっている。珍獣かよ。

精神疾患とか、更年期障害とか、障害者だとか、プラシーボも書いてあったな。ありったけの否定言葉を尽くして弾圧を繰り返す。いつしかストレス発散の吐け口となっていた。汚い言葉で「ウソつくなっ」と叫ばれる。アホよら、関係ない、と笑われる。被害に苦しんでいるからこそ、弱者をイジメて懲らしめる。優越感に満足する。ワシらには何ともない。オマエだけや、と罵る。風力の被害など聞いたこともないという。

これが狭い谷あいの由良町に響き渡るのだった。カエルの楽園よ。私は重症の風力被害者だから、他の被害者たちの苦しみがよく分かっていた。他の被害地、例えば東伊豆町や山口県などから被害者が訪ねてくる。情報交換しながらも、すぐに消えていく。死んだんやね。早々に引っ越せばよいのに、そんな被害地にこだわる必要もないのにさ。アッ、それは私のことか。

なんせ先祖伝来の田畑がある、古い百姓屋がある、アイデンティティの問題だ。どれだけ私が否定されようと、憎まれようと、身分が違うんだよ。先祖の歴史を背負って生きている。由良町という政治が、行政組織が、どんなに酷くとも生き抜いてきた。死んだ被害者たちはご愁傷さまだ。笑われ者という烙印を押されて、さぞや高揚したことだろう。とうに人間破壊されていたやないか。

低周波被害だけではなく、人物破壊という社会政策に遭う。ボロクソだよ。人々は大喜びして笑っていた。誰かが「止めろ」と言ってもいいのにそれがなかった。これが田舎社会の実態だ。人の不幸が面白い。たとえ自分にも被害感があるにせよ、もはや低周波とか風車とか言葉にすることはない。水俣でもイタイイタイ病でも、それは同じ対応だ。被害隠蔽の強制が、いつしか自己家畜化して定着する。

誰もStop wind turbines ! ということが出来なかった。私一人なんか。門前の天然記念物。人は阿呆と言っている。子供の頃から変わらぬ人の評価だ。結局、原点に返ったね。家柄、血筋だと思う。600年前、後醍醐天皇を擁して戦った南朝方の記憶がまだある。安岡正篤でさえ、先祖が南朝方で戦ったと言っている。それと同じモノだろう。あるいは明治維新の記憶とか。

歴史上、体制に逆らって、勝っても負けても、どちらがということはない。勝って負ける戦もあれば、負けて勝つ戦もある。風力発電の被害では、初めから答えはあった。建設コンサルとして、内部事情は知っていた。日本に風力は無理なのだ。それなのになぜ❓ というのが私のテーマになっている。人々の狂喜とな。破壊の後、宴の後始末を見ないか。