いつの間にか、風力発電の低周波被害を訴える人が誰もいなくなっていた。風力発電が出来て、トンデモナイ被害に遭って苦しんでいた人たちの記憶、記録が消えている。低周波被害がなくなったわけじゃない。被害者がいなくなったのか? 日本では高度な地域対策が、社会政策として進行していた。風力の卓越した低周波音は強力だから、必ず風車病に苦しむ人が出る。あるいは人々の異変に気が付く人が出る。それが今、全国の風力発電地域を見回しても、まったく何もなくなっているのだ。
私が風力被害に関わったh24年当時は、全国どこにでも、低周波被害を訴える人はゴロゴロいた。決死の覚悟で戦う人もいて、コテンパンに敗れ去っていく。誰も同情する人はいない。由良町では、それは酷い言葉で罵られたものだけど、全国どこでも風力被害者は社会的に追い詰められて消されてきた。死ぬか、逃げ出すしかなかった。今も、もちろん同じことだろうけど、当の被害者の声がどこにもない。見当たらないのだ。
由良町でもそれは同じで、「風力の被害など聞いたこともない」と言われて久しいけれど、あの被害者たちが何か抗議とか、泣き声とか、そんな話は聞かなくなっていた。私は誰からも拒否されているからね。彼らは上手く溶け込んでいるんだろうね。塗炭の苦しみに我慢しながらね。もっと苦しめばよい。いや、もうそんな人間感覚は無くなっているだろう。犠牲の連続、生贄にされた被害者を見てきているだろうにな。暗闇が覆う町。風力被害地はどこでも同じ風景になっている。
人々は大喜びしている。喜びの原因は、優越感、人の不幸が面白い。「聞こえない音がうるさい、ってか。アホよら」こんな奇態な笑い話もない。ヘンな人よら。キチガイ、としか見えんわな。ワシらには何も聞こえないし、感じることもない。敏感なんか。アレルギーなんか。クスリで治らんのかい。頭の病気やさかいな。べつに可哀そうとも思わん。笑いものよ。由良町周辺は昔から貧しくてな、アメリカなどへ移民する人が多かった。我家にもサクラメントで亡くなった人がいる。
最近でも高校を出たらアメリカに渡る人がいる。ネイティブ、まるでアメリカ人のように英語を話すようになっている。日本の外語大学で無理して英語を勉強しなくとも、カルフォルニアへ行けば自然にしゃべるようになっている。日本人も器用じゃないか。アメリカへ行ったら、もう帰ってくることもない。だって話をしても合わないから。まるで宇宙人よ。価値観とか、人間が変わってしまうらしい。そんな気配を感じながら、どうして日本人はムラ社会に閉じ込められた思考しかないんだろうか。
それか嫌で、アメリカに逃げ出す人がいたんじゃなかったのか、と不思議に思う。アメ公、アメリカさん、と言うしな。みんな一緒に、という訳だ。やはり貧しさか。これまで各地の風力被害者のことを書いてきた。中には私を汚い言葉で罵る人がいた。低周波被害に遭って、頭がやられているんだろう、と思っているし、そのように教えてくれる人もいた。風力被害者になると人生が破壊される。ご自分ではそのことが分からない。ヘンな人、と言われるだけよ。たくさんの苦痛と、社会からの弾圧、狂うわな。
ほっとくしかない。それでも世界の風力反対を見ていて、日本だけが被害者をアホにして喜んでいる。この事実は何を意味するんだろう❓ 水俣病やイタイイタイ病を見ても、そこには被害者差別の実態が生々しく書きこまれている。だから安易に症状を言葉にできないんだ。人間失格の烙印を押される。そしたらもうクソミソに弾圧される。生贄だよ。それが日本社会というものだ。日本では、環境省だけでなく、政治が、政府が、堂々と低周波被害を否定する。つまり国是、被害者は勘違いしている。
前払いよ。その割に各地では、被害者をターゲットにして殺してしまう。屠殺現場になっている。そのことを由良町の被害現場では、重々、思い知ったことだろう。言葉にして残したのは谷口愛子さんだけかい。誰も味方しなかったし、嫌悪の的であった。私が風力被害者の末路を伝えなければ、日本では被害者がいなかったことになる。加害者として喜ぶ人々の実態もな。民衆の敵。今はもう誰も見向きもしない。それでも風力被害を描き続ける理由は、根拠は何なのか。面白いじゃないか。
人間として、一番大切なもの、道徳や倫理観が粉々に破壊されて分からなくされている。それが面白いと人々は言う。アホよら。関係ない。と人々はマントラを繰り返す。やはり社会コントロールが酷いな。政治が悪い。SNS、twitterを見てもまともな論者がいない。日本人は大切な人間観を失っている。それを取り戻す気配はない。私の苦悩も徒労でしかない。いやいや、生きるためには意識が必要なんだよ。風力発電の低周波で苦しくてならん。そう思う心の有様が必要なんやで。