東京での由良守應宅

守應の破天荒な生き様については、いつか私が記録としてまとめてみたいと思っている。なんせ生まれた時から、守應の話ばかりを聞かされてきたからね。記念の石碑の除幕式、神坂次郎さんの『走れオムンボス』の取材、NHKの守應ドキュメンタリー、私にとってはどれも胸躍る出来事ばかりだ

守應を直接見て知っている年寄りがまだ生きていた。こんな田舎町にはとても収まりきれないエピソードにあふれていた。たまたま図書館で聞いてみると、下記のような調査結果をいただいた。不明な分からない点は多々ある。それを気になったことだけでも渉猟していく作業は楽しいものになっていた。

今回の担当者さんにはお礼の言葉もない。私の下手な方言に付き合わせてしまった。添付資料には、千葉道場の記述も添えた。間違いなく江戸城の清水御門前で牛を飼って、牛乳を販売していたのだ。それも明治5年にはアメリカから羊をこの地に送っている。守應にはこんな広場を購入する金などないから、「賜邸」や「拝借地」ではなく、何かの魔法があったことが分かる。

弟の由良渓五郎は長州藩士となって亡くなっているし、守應も伊藤博文などの護衛をしていたと聞いている。もともとが密偵だったというから、何にも残されてはいない。和歌山藩で弾圧されて投獄されたり追放処分の記録ぐらいだ。肝心な物語を構成する証拠がないんだから、私が祖父や親父から聞かされたエライ闊達な生き様しか私の脳裏には思い浮かばない。

今、この東京の宅地がまだ残って居たらなぁ、と思う。あちこちに土地を購入していたというから、金の成る木でもあったんだろう。本当に残念だ。私は守應の最後の相続人で、後始末には難儀した。そして由良一族の最後の一人になってしまったことも運命だと思っている。

平安時代に京都から都落ちして、それから千年余、よく続いたと思う。あちこちに残されている家系図は嘘だと思っている。本質的な違いはないから、便利の良い源氏系にしたんだろう。恥ずかしくて人に見せられない。それらの記録は、曾祖父が田んぼで、僧侶のお経とともに焼いてしまったと聞いている。たぶん作り話だと感じていたんだろう。私と同じ感覚だ。

質問要旨

由良守應が明治8年に購入して住んでいたという東京飯田町1丁目1番地の住宅地図を見たい。

回 答

東京都立図書館に問い合わせたところ、次の回答を得られましたのでお知らせします。

1.由良守応の名前の入った地図

情報1『第三大区沽券地図(第三大区四小区)(飯田町一丁目・同町二丁目・同町三町目・同町四丁目・同町五丁目・同町六丁目・冨士見町一丁目・同町二丁目・同町
三丁目・同町四丁目・同町五丁目・同町六丁目)』(東京都公文書館 デジタルアーカイブ)

https://dasasp03.i-repository.net/il/meta_pub/G0000002tokyoarchv13_0003648720001

明治6年 東京府地券課作成

清水御門前の飯田町1丁目壹番に「由良守應」の名前と「四千二百九十壹坪 金千五百六十五円」と記載があります。

沽券地図については東京都公文書館のフェイスブック(2020年10月13日)に以下のように紹介されています。

「江戸の約70%を占めた武家地は、本来、公儀から拝領したものですから売買はできませんでした。近代的な土地所有制への移行を目指す過程では、従来の武家地、町地の区別を廃して等しく地券を発行し、土地の永代売買を解禁するなど、土地制度に関する一連の改革が実施されました。

そして土地1筆ごとに、その土地の所有者、面積、地価を確定していく地道な作業が進められていったのです。
これが一段落したところで、その成果を地図に落とし込んで作成されたのがこの「沽券地図」です。」

https://m.facebook.com/tokyo.archives/posts/3687032591331580/

また、地図ではありませんが、当時の新聞記事に該当の住所で由良守応の名前が入ったものがありましたので紹介します。

資料1『読売新聞』1877年7月18日 朝刊4頁

迷い犬の広告記事で、連絡先が「飯田町一丁目ロ一番 由良守應」と記載されています。

明治初期の当館で所蔵する地図資料を確認しましたが「由良」の名前を地図で確認できたものは情報1のみでした

<その他、主な確認資料>

資料2『明治初期東京地籍圖集成 A 大日本改正東京全圖』

「實測東京全圖」(内務省地理局∥編 内務省地理局地誌課 明治12年12月校補) 「大日本改正東京全圖 1-5号」(西川光通編輯 西川光穂 明
治12年3月刊)の複製  西川光通編  科学書院  2002.6(DRT/ 290.3/ 5026/ 1 5004860108)

YM-01-04の図が該当地です。

縮尺はかなり大きいですが名前の記載はありません。

資料3『[東京全図]』辻岡文助編輯  辻岡文助  [1878](T/ 290.3/ 5256/ 1878 5003415438)

該当地に名前があるのは「大隈重信邸」のみです。

資料4『明治前期測量中央官衙街2000分1彩色地図』[日本地図センター編]  日本地図センター  1996.1(DRT/ 0・290/ 3058/
1127295671)

「五千分の一東京図測量原図」の拡大複製で東京府武蔵国麹町区代官町及一番町近傍(明治16年2月) の図が含まれています。

ご覧いただいたものと同じものと思われます。該当地に名前があるのは「大隈邸」のみです。

2.土地の購入等について

情報2「東京都公文書館「情報検索システム」」(東京都公文書館

https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/

東京都公文書館の「情報検索システム」を「由良守応」のキーワードで検索すると、飯田町1丁目の土地の関連として以下の公開件名が検索されてきます。
中身はインターネット上では確認できませんが、実際にこちらをご覧いただくと土地の動きが分かるのではないかと思われます。

「由良守応雉子橋外元勧農寮用地払下云々」(明治6年~明治6年

「第三大区四小区飯田町1丁目1番地元会計官附属厩邸内地券下渡願 租税寮七等出仕由良守応 府貫属林義生」(明治5年~明治6年)

「麹町区飯田町1丁目1番地 地主由良守応 差配人天野喜四郎 新地主高木久三郎」(明治8年~明治8年)

「第三大区四小区飯田町1丁目1番地ロ 由良守応」(明治11年~明治11年)

「飯田町1丁目1番地ロ、2番地 持主由良守応」(明治11年~明治11年)

資料5『三田学会雑誌 86巻 2号 (1993.7)』慶応義塾経済学会 (都立多摩図書館所蔵:5005287480)

p.81(221)-121(261)「明治初年、東京市街地における地価算定政策の展開」森田英樹著

p.116(256)「[表1]飯田町1丁目の地価の動向と地主の変遷」の表では、

明治6年、明治8年8月頃、明治11年について記載があり、いずれも地主氏名は由良守応になっています。

明治6年については「地券御下渡願」「東京六大区沽券絵図」より作成されており、「地種」には他の土地には「賜邸」や「拝借地」等の記載がありますが
由良氏の1番地については「(記載なし)」とあります。

明治8年は「地券帳」より、また明治11年は「地価取調帳」より作成とあります。その他にも本文中には明治初期の土地の算定について特に飯田町について説明のある部分もあり、参考となるかと思われます。

こちらは慶應義塾の学術情報リポジトリでインターネット公開されています

https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19930701-0081

資料6『都市と地租改正』滝島 功著  吉川弘文館  2003.12(T/ 345.4/ 5005/ 2003 5019216391)

p.65「表1 飯田町一丁目の地主と地価」

明治5年と明治8年の表となっており、明治5年の地番1には「租税寮七等出仕由良守応」、明治8年の地番1には「→高木久三郎(東京・平)」の記載があります。こちらの表は東京都公文書館の「地券御下渡願」「地券帳」から作成されたものとあります。

資料7『都道府県別資産家地主総覧 東京編 2』渋谷隆一編  日本図書センター  1988.7(DRT/ 0・345/ 38/ 2
1123442527)

『東京地主案内(明治11年)』が収録されており、

p.25 飯田町一丁目一番に「千百八十五坪 由良守応」の記載があります。

また、土地の購入に関する記述はありませんが、この土地との関連として、以下の記載がありました。

資料8『日本科学技術史大系 第22巻 農学1』日本科学史学会編  第一法規出版  1967.10(/ 5021/ N685/ N1-22
1126980402)

p.584 年表

明治5年の農村漁業生産の枠に、「五・十七 在米由良守応より送られた緬羊を雉子橋邸内で飼養」の記載があります。

雉子橋は該当の箇所と隣接しています。

こちらの資料は国立国会図書館の図書館送信限定でも見ることができます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2422343
<https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2422343(299コマ> (299コマ)

参考として、直前ではないですが江戸時代後期の地図で該当箇所の屋敷が分かりやすいものとして以下の資料があります。

資料9『復元・江戸情報地図』吉原健一郎[ほか]編集・制作  朝日新聞社  1994.10(DRT/ 0・290/ 3040/  1127584549)

1:6500。安政年間の市街の地勢を復元し、現代の地図と重ねたものです。該当地は図21の右側で、当時誰の屋敷だったか記載されています。

資料10『元治再刻飯田町駿河台小川町絵図』金鱗堂尾張屋清七 慶応元[1865]再刻 切絵図 (特別文庫室所蔵資料:東0412-008)

当館作成「TOKYOアーカイブ」で画像が見られます。

https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042242

※資料名の後ろの()内は、特に断りの無いかぎり都立中央図書館の請求記号と資料コードです。

インターネット最終確認日:2021年6月9日

以上、東京都立図書館の回答を引用しました。

資料1『読売新聞』は当館の新聞データベースで閲覧・複写が可能です。

資料4で「ご覧いただいたものと同じ」と記載されているのは、当館で調査済み資料として提示した次の資料と考えられます。

・五千分の一東京図測量原図:東京府武蔵国麴町区代官町及一番町近郊(1883年)「大隈邸」

https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002275675-0020

・東京全図(1892年)「仏国公使館」

https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=000903708

※どちらも国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースより閲覧。これ以外にも近い時期の東京の地図が閲覧できます。

https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index_area.php?area=13tokyo (地域別一覧(東京都))

資料6、8、9は当館で所蔵があります。