預言者たちは、虚しく役に立たない幻を見た。

我家にはなぜか革張りの古い聖書が20冊ほども積んであった。中には細かい書き込みがびっしりあって、なんだろう、これは? と奇妙な気持ちになったものだよ。明治の初期、人々はこんなにも熱心に聖書を学んだんだろうか。そんな昔話は伝わっていない。

海外に行った時、外人さんと話をするのに負けないための気位だったのかもしれないし、彼らの価値観を理解する手立てかもしれない。我家は神棚と仏壇が並んだ普通の百姓屋だ。聖書は大きな木箱に入れて納屋の屋根裏に置いてあった。キリスト教の信仰じゃないな、と思った。

なんでたくさんの聖書が残されていたのか、理由は分からない。古びて、黒ずんだ、使い古された様子は、昔の人の怨念が染みついているようにも見える。あの戦争に持って行ったんだろう、と思ってもいる。よく言うじゃないか。刑務所に入るとき、持って行く本は何か。

聖書か論語。物語からすると聖書の方がよっぽど面白い。論語は固すぎる。ええ、私もたまには聖書を拾い読みする。生きていれば、荷がとても重くて耐えられないことがある。キリスト教を信じているわけじゃないけれど、さすがにそれを手にしていると心が落ち着くようだ。

鉦を叩きながら般若心経を唱えているようなものか。君もやっているかもしれないね。それで今、聖書の解説を見ていると、何度も目にした文が、具体的に見えてくる。歴史は繰り返す。新しいことは何もない。偽預言者や偽善者たちの議論の果てよ。虚しい偽りの託宣よ。

聖書にちゃ~んと書いてあるやないか。「ニセ預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方の所に来るが、その内側は強欲な狼である」確かに夏が暑くなった。しかし山々に林立する巨大な風力発電を扇風機と言って笑って喜ぶ町長らの正体は何か。これで本当に由良町が涼しくなったと思っているんだろうか。

夏場はほとんど風は吹かない。冬だって、小春日和が続く。穏やかな気候に恵まれているのだ。風もないのに風車が回っている。被害者なら気が付かないものはない。すべてはウソの上塗りだと気付くのに時間はかからなかったと思う。最初の被害者群が死んでから、すっかり人々の意識は塗り替えられていた。

私は近づくことさえできなかった。一人、低周波音被害に苦しむことになっていた。じゃあ、彼らに風力被害の苦しみは無くなったんだろうか。水俣でも福島でもそうだけど、弾圧によって人間性が奪われるようだ。人は虐待されると動物のようになる。そんな生活が当たり前になる。

だから逃げ出して、他の地に移り住んで暮らす人は多い。その方が行政も政治も楽チンだ。美徳を装いながら、それとは反対の政策を賛美する偽善に満ちた議員たちよ。何が観光資源になるだよ。神の怒りに触れるだろう、と私は信じている。

それと最初から被害を訴えながら、被害を否定する議員には平身低頭、ぺこぺこと媚を売る被害地域の人々の風景よ。地域対策とはいえ、所詮はそんな社会風土であった。私は違うからね。家柄自慢じゃないが、京都から都落ちしても、どうしても譲れないことはある。それが私の信仰だと思っている。

今、人々の信仰心は消えてなくなりつつある。善悪の分別は、実に信仰にあるのにそれが分からないらしい。八百万の神々でも、仏教でもよい。観光レジャーじゃないんだよ。そんな履き違えを堂々と行政や政治がやっている。アホらしくてさ、ものも言えなかったよ。それほど役場は転落してしまっていた。

その結果が、由良町の風力発電被害だ。もちろん環境省などの記録にはない。風力の被害など聞いたこともないと繰り返している。社会の崩壊よな。みなさん、少しは信仰を取り戻さないか。神や仏があるからこそ、我々は生きてこれたんやで。韓国、朝鮮の宗教に入れあげた政治家の面々よ。

それを祭り上げる日本人の煽りようよ。やはりアベの殺害は神の啓示だと思いたい。再エネと称する詐欺、ペテンも、いずれ崩壊すると思うのだ。偽善に災いあれ。古き良き日本を取り戻そうじゃないか。