未必の故意、殺人罪やね。

おはようございます。暑さも和らぎ秋らしくなってきました。私は今、稲刈りをしています。
由良谷を見下ろす21基の風力発電は、止まっていても苦しい低周波を発しています。

私の人感センサーがその根拠です。たぶん、地震の影響や、上空の風、天気の気圧変動といった、一般の人には何も感じないはずの気配が、「風力発電の振動」といった形を経て、私に伝わってくるのだろうと思います。

小林先生の自由振動の話を聞いて、そうだろうな、と思ったものでした。もう少し詳しく測定して、なにがこうも気分や頭痛、気持ち悪さに影響するのか、何もない状態、自然界にある「小川のせせらぎ」「海岸のさざ波」、あるいは大波や大風、と要があると思います。

さて9/12日の一般質問についてです。私は風力発電の被害に苦しむ被害者たちの声を懸命に訴えました。
町長はまったく我関せずの無責任な答弁を繰り返しました。被害者から何度も直接に訴えられているのに、「知らない」とウソを繰り返すのです。

それは議会に出席していた議員たちも同じことでした。役場職員たちもです。もはや開き直り、確信犯、被害の否定に凝り固まったロボットになっています。
まだ当初の頃は、人間としての感情的な憎しみや嫌悪、忌避の言葉がありました。

結構辛い弾圧でした。しかし今は、まるで規則通り、決められたルールに従って「分かりません」「関係ありません」と同じ人としての感覚を共有していないんですよ、という対応に固定されています。

何のために? 私は常にそう感じています。アウシュビッツでユダヤ人を殺して焼いていたドイツ人も同じ現象です。
「ハンナアーレント」や「アイヒマンの後継者」で明らかに表現されています。彼らはそれを見ても、何も感じないのです。

戦後、アウシュビッツの看守たちが罪の意識もなく、平平凡凡と暮らしていたのと同じ現象です。
人として大切な、「何か」を確実に無くしてしまっているのです。この事態にどう思われますか。

目の前の利益のために被害を覆い隠してしまう。議員や職員、全員参加で絶対多数だとして被害者を弾圧する。
被害を訴える私を迫害、指弾する。今、福島県でも放射能汚染を訴えると暴力的に弾圧されると聞いています。

同じことが水俣病以来、いや、もっと昔から行われてきたのだと思う。
そして由良町では、被害者の敵は、実は地域の人々だった、という笑えない事実があふれている。

地域の人々と被害者だけではなく、家族にも対立と垣根を作り、風力発電被害から目をそらすことが暗黙の掟になっている。
私はもちろんのこと、去年亡くなった谷口さんなど地域の秩序を乱す異分子として排除、差別されてきた。弄ばれてきた。

風力発電の低周波は強烈なので頭をやられるのでなおさらだった。
人が強烈な低周波で頭をやられて死んでいく。それを笑い物にしてアホにする。

自分は感じないからといって、どうしてそんなことができるのか。

9月議会一般質問についての小林先生の意見です。

 由良さんの質問自体は論理的でよかったと思います。ですが、話は町長に通じておらず、西名阪と風力と混同したりしていて、結果的には空振りに終わった印象でした。

町長は結局、法的規制がない≒実は「低周波音は害がないというのが現環境省の立場」に逃げこんでいます(保健所が対応してくれないのも同じです)。

その意味では、西名阪時代の方が戦いやすかったといえるでしょう。町長の不勉強を別とすれば(彼に少しでも人間的暖かさがあれば、法的規制がなくてももっと対応の仕方があるでしょうが)、環境省の罪は軽くないです。

全国的、世界的にキャンペーンを張って、日本環境省を糾弾することが大事です。

小林