6月議会の小林先生の意見

6月議会を振り返って、小林先生に意見を求めました。
私のメールです。

6月議会の件では大変お世話になりました。『日本の科学者』誌、7月号記載の先生の原稿も大いに使わせていただきました。
低周波被害をこうむると頭が動かなくなります。神経がやられて、体が動きづらくなります。何もかも、生活の質が落ちていきます。

私は、できるだけ小林先生のことを知らせてあげようと、あちこちで吹聴というか、偉い先生が味方してくれていると伝えるようにしています。
インターネットの私のブログはその手段の一つです。田舎の人は、若い人でもインターネットを使えません。

タブレットなどもなく、わりと有名な大学を出た人でも、関心を示さずに田舎人、野性人として、何の疑いも持たないようなのです。
私一人がホームページを作ったり、風力発電の低周波被害を世間に訴えているようなのです。

最近の私のページにも、風力発電の低周波に苦しみながら亡くなった人たちのことを書きました。
どこまでアホなんや、としか言いようのない被害者たちでした。

騒音であろうと、低周波音であろうと、ストレスが高じて死に至ることがあるという当たり前の事実さえ理解しないのです。
それでも小林先生には感謝している関係者はたくさんいると感じています。誰もここまで書いてくれる学者はいないのですから。

全国の被害地には、今も低周波音に苦しみながら、じっと我慢して、せっかくの人生を押しつぶされた被害者がたくさんいます。
私のようなのは、たぶん珍しい珍事でしょう。数人の人に泣きながら訴えられて叫ばれて、私も被害者になっていて、黙っていることはできませんでした。

先日、6月議会のDVDをお送りさせていただきました。町長答弁の空疎なこと。許せるものではありません。役場職員、町会議員、新聞社、みんな分かっているのにです。
それで、こういった社会現象については、やはり明確にコメントして、けじめを付けていかなければならないと思いました。

知らん、関係ない、では、死んでいったアホな被害者たちは人ではなくなるような気がします。彼らだって、人として、何か思うことがあったはずです。
生研が主導するアホな洋上発電など、先が見えています。それを分かっていながら利権にたかっているのです。

6月議会の一般質問について、小林先生のコメントにより、さらに前に進められればと思います。是非、町長答弁に対する意見をお待ちしています。

小林先生からの返事です。

由良様 このところ体調不良で仕事もセーブしながらやっています。そのため町議会の質問のdvdを今日やっと見ました。
思いつくままの感想を述べます。

低周波音について:由良さんの話はまともで、原稿起こしすれば格調高い文章になると思いましたが、無関心そうな町長や職員には訴える力が不十分と感じました。
もう少しかみ砕いて、基礎知識のない人でもわかるように、懇切に述べたら、少しは影響を受ける人も出てくるのではないかと思われます。工夫してください。

たとえば、私は紙数制限のため、論文には書きませんでしたが、レべンタールは、日本の風力推進業者が招待して講演してもらったような学者です。
そのことは多分由良さんも知っていて、いい加減な奴だといっていたのではなかったか?そういう人でさえ、低周波音公害は認めているんだ!というところが大事なのではありませんか?そいいう補足をしないと、なんでレべンタールのことなんか言うのか彼らにはわからないでしょう。

2番目の質問:図書の管理について:これは私も多少経験があります。
京大に戻る前勤めた鉄道技術研究所で、書物は増えるし、図書室のスペースは限られているし、ある時勇敢な図書職員が古い本が邪魔だと、それらを全部屑屋に売りはらってしまった事件がりありました。

そのことが後日、研究者にばれて大騒ぎになり、売った段ボールは1週間後ぐらいに全部回収され、全員に公開されましたが、なんと貴重な雑誌のバックナンバーなどちゃんと抜き取られてなくなっていました。
つまり屑屋にある間に図書の価値のわかる人が商品価値のあるものだけ抜き取ったのです。

蔵書の始末に困ることは研究者はみんな知っています。僕は京大以後でも最後の職場は熊本(阿蘇山)、京大をやめてから広島の私立大、そのあと東京の小企業に勤め、各地を転々としたので、そのたびに不要なものから整理していたので、蔵書は割合に少なかったのですが、広島を引き払うとき、古本屋に相談したら、漫画と文庫本は引き受けてもいいが、専門書は勘弁してくれと言います。

でも親切な古本屋で、お困りならただでもよければ処分してあげますというのです。つまり、広島あたりの古書店は文庫本と漫画しか流通できないので、ごみとして片づけてくれるというわけ。
その後インターネットで「専門書買い取ります」というのを見たので連絡してみたら、いくらになるかわかりませんが送って見てくれというので、段ボールを2-3個送りました、相手は東京の神保町の古本屋です。

しばらくしたら代金数万円が振り込まれました。その後部屋を片付けていたら、また段ボール何個もできたので、またその古書店に電話したら、たいしてお値段にならなかったけれど、どうぞ送って見たくださいというから、また送りました。

数日したらまた数万円が振り込まれました。つまり本というものは、価値のわかる人と分からない人がいるということです。神保町なら専門書を探して全国から人が集まるので売れるのです。
広島ではだめだけれど・・・。

広島の某私立大では、国立を定年で辞めた人が勤めることが多いので、そこも停年になったとき、自分の図書を図書室に寄付して退職することが多かったのです。
でも図書室は書架のスペースも限られているし、有難迷惑で、仕方なしに、寄付された段ボールをそのまま山積みしていました。

そこでも鉄道技研と似たようなことがあったような気がします。そういうことをする図書室員はちゃんとした司書の資格を持っている人なのです。

このごろは本の好きな人が激減しています。桑原先生の蔵書を処分した人も「本を愛していない」司書だったのではないかと想像します。本は無限に増えるし、何とかしなければならないのは難問です。

でも、もし本を愛する人なら、それらしい処分法を考えるでしょう。公民館の担当者が独断で処分できないようにすることが大事です。
見る人が見れバ相当価値のある書物もあるかもしれないので、処分する時はそういうひとの意見が反映されるようにしなければいけません。以上

小林