落ちたイカロス

もう55年も前の記憶に、マーガレットやフレンド、と言った少女漫画が流行っていた。「イカロス」の言葉はその時見て、ヨーロッパの考え方の魅力と云うんだろうか、理想を見た気がした。貧しかったからね。テレビや漫画の世界に浸っていたものさ。理想を持つことはよい。しかし度が過ぎると現実離れがして転落する。

幻想、妄想と変わらない。惨禍、瓦礫の山を見渡すと、何もしない方が良かったじゃないか、と歴史を振り返る。再エネは当にイカロスじゃないか。政治家は、「再エネ」と抽象的な表現にして話す。風力発電、太陽光発電、などと具体的な発電方法を指定することはない。あくまで再生可能エネルギーなのだった。

持続可能な、とか、サステナブルとか言ってさ、言葉遊びの世界に踊っているんやで。由良町の様な弾圧政策になると、いったい何のために、と破綻の有様が明らかになる。それでも「風力発電を作らないと損なんやで」と言い続ける人の真意は何なのか、と思う。再エネ利権、カネであったり、権力志向だったり、汚さ抜群だよ。

とてもギリシャ神話に出てくる美少年ではない。かつてジャーナリストたちが由良町に来て、山々に林立する風車群を見て、「なんかヘンですね」と話し合ったことをよく覚えている。風は吹いていない。回っている風車と、止まったまま羽を垂れた風車たち。

私は建設コンサルタントに勤務していたから、風力発電を稼働させるだけの風なんかどこにもないことを知っている。インターネットで天気図を見れば風速が載っているから、そんなもので発電できるかどうかすぐ分かるだろう。最近は、きっと割増の数値になっているかもしれないね。情報操作だよ。心理コントロール。

写真地図を見たら、すべての風車が消されているだろ。情報管理されているんやで。日本では、誰も何も言わなくなっている。関心がないのだ。気が付かないうちに、ドンドンと情報が狭められていく。社会コントロールの基本だよ。戦争の時と同じやり方だ。一部の支配層にしか、真実の情報は存在しない。

「寄らしむべし、知らしむべからず」。どうせ分からないから説明する必要はない。その支配層もまた、管理されていることは太平洋戦争の顛末を見れば分かることだろう。コテンパンに操られていたやないか。日本人のアホさ全開よ。やり切ったのだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。日本は豊かになり過ぎたのだ。

身の丈に合った生活をすればよいのに、都会生活に紛れて消えてしまう。タワーマンションとかさ、電気なしではありえないでしょ。それは田舎生活でも同じことか。その弱点を突かれたんやね。風力発電は、どれだけ役に立っているのか? とうに分かっているだろう。一般の電気を使って回している。観光風車。

デモンストレーションなのさ。政治家は絶対にこの真実に触れることはない。なぜな。風車の規模をより巨大化させて、高さ200mもの鉄塔を立てるまでになっている。キックバックも多くなる。大切な資金源よな。野党にも配られるから、政治はまるで機能しない。太平洋戦争でもそうだったでしょ。戦後でもな。

日本人は上から与えられた民主主義に従うしかないんかい。理想に向かう意思はないのかと独特な社会性に思うのだ。イカロスと同じ、背負わされた理想かい。新聞やテレビでは絶対に風力被害は伝えない。私に対する弾圧記事はその典型だ。これが私を取り巻く社会になっていた。各地のエセ風力反対を見るがよい。

なにが土砂災害だよ。低周波被害、風車病を否定する学者を担いで、地下水が問題だと抜かす。こんな輩のグループがインターネット検索のすべてを埋め尽くす。全国大会だという。ウソをいくら積み重ねても、上塗りしても、笑い話にもならないではないか。ヘンやな、と感じた人もいるだろうに。君子危うきに近寄らずか。

誰もそのウソに近づかないしタブーになっている。オウムなのだ。パロットparrotな人々というらしい。環境運動家らの事だよ。最初から目障りな悪魔だったからね。そいつらも70才を過ぎて引退してしまっている。残党が燻ぶっていたりする。新しい人はいない。私も65才になっていた。まったく誰も寄り付かない。

真実はこれほど孤独なものだったのだ。ニーナビアポントや汐見文隆医師などボロクソに書かれているからね。私への迫害は勲章みたいなものさ。今では火鉢を使うことはないけれど、灰に隠された埋もれ火か。それを火箸で取り出しては炭火をイコラしている。フウッ、と息を吹きかける。

たくさんの風力被害者と関わってきたけれど、とうとう私一人になった。「風力の被害など聞いたこともない」と人々はあざ笑う。そうかい、よかったじゃないか、と笑い返す。歴史に詳らかなり、と由緒書きにある。今回の風力被害も例外なく評価される。とても愚かしい。