オカルトを区別せよ

今朝の産経記事には日本人の自衛意識の低さを指摘する平和ボケが書いてある。同じ記事がしつこく繰り返されているから、よっぽどな心配事だと思っているんだろう。ハッキリ言って、まだまだよ。私は究極の社会の有様を風力被害を通じて見てきた。このページを初めから順に見ていくと、風力発電の低周波被害で、いかに被害者が苦しみながら死んでいくしかない事実が分かるだろう。

それはh18年の段階で、東伊豆町の風力被害の発信で、全国に知れ渡っていたはずなのだ。東伊豆町の役場に電話して聞いた人は多いだろう。そして判で押したように「被害はありません」と聞いたことだろう。由良町でもそうなっている。いや、被害者に対する弾圧の酷さを私は抗議し続けてきた。低周波被害と虐待の嵐よ。人々は手を叩いて笑っていた。

アホよら、と。さてこの記事の末尾に、日本人は逃げ出すし、何もしない人ばかりだとある。まったくその通りだよ。そしてな、やはりその時には人々は手を叩いて笑うのだ。「ワシらは面白うてならんのや」とな。私は最近は地域の人が亡くなっても知らん顔を決め込んでいる。親父からは「嫌だったら行かんでいいんやで。無理することない」と言われていた。

無理してまでアホにされに行くこともないか、と私は判断した。香典の貸し借りが気になるけれど、嫌悪でしかない人々の群れに、なんで無理してまで顔を出さなきゃならんのかと思っている。近頃は家族葬になっているしな。親類でも遠慮してくれと言われることがある。我家は母屋なので、血縁があると少し辛いかな。社会の希薄が進んでいる。

昔は戦友とか同級とか、親しみの籠った人間関係を見ていた。生きることだけで精いっぱいだったころの話だ。我家でも沢庵に野菜の煮つけ、だけの生活だった。貧しかったからね。今は毎日、肉や魚を食っている。スーパーで大量の食品を買って消費する。夢のような豊かな生活になっているハズなのだ。それが案外脆い。その心配が、戦う意思のない平和ボケの日本人の風景だということか。

そんなことよりも風力発電の被害だ。風力発電はオカルトやで。地球温暖化、脱炭素、自然エネルギー、サステナブル、再生可能エネルギー、等々、スローガンを並べてみると、プロパガンダの嵐やないか。あの戦争の時と全く同じやり方よ。そして「問題の大きさを取り違えてはならない」と説く。被害者の否定。被害者の弾圧。そんなにまでして被害に苦しむ人をイジメなくてもいいものをさ。

それを見て嫌気がさしたのは私だけではないと思ったのだが、実際は、人々はそれを見て笑ったのだ。私にはたくさんな非難の言葉が投げつけられた。「もし被害があったとしても1回言えばそれでよいだろう」「糠に釘。暖簾に腕押し。何を言ってもダメなんやで」「キチガイみたいに言っている」まだまだたくさんの言葉を頂いている。

皆さん、谷口さんらが苦しみを訴えて亡くなったことを知っているんやで。同級生もいれば友達関係も広かったから、何が起こっているかは、由良町に住んでいれば自然に伝わって来る。その上で「関係ない」と言っているのだ。今は「風力の被害など聞いたこともない」と言っている。誰も役場にそんなこと言った人はいないのだ、と。私だけがなんかヘンなこと言っているらしいというのだった。

これって、プログラミングされたアルゴリズムよな。昔、高専で情報処理の講座で勉強したよ。私は学会まで行って、数値計算の論文を発表しに行ったっけ。とても苦手な分野だった。そんな仕組まれたプログラムの流れが人々の言葉の流れに付きまとう。だって田舎の百姓は素朴で語彙が少ないからね。少ない言葉数で会話が成り立っていたのだ。

「ナン、やさかい、何やのう」とまるで何を言っているのか分からない言葉で意思が通じ合う。そんなシンプルな生活でやって来たのだ。それが私が耳にする言葉の豊富なことよ。タクトを振っているものがいる。ネジを巻いているのだ。田舎者は構ってくれるだけで喜ぶから、とくに人の悪口はもってこいの材料よ。私はコテンパンにやられていた。でもまだ生きているからね。

殺された被害者はお気の毒さま。笑いものにされて、それでも言葉一つなくてさ。攻撃する方はマニュアルと支援する体制に守られている。だから自信たっぷりに私に汚い言葉で叫ぶのだ。「ヘッ」とさ。風力被害者は、毎日が大変やで。問題は、この意識の変化がこれからどう展開するかだね。私は彼らと関わることはもうない。有事にはサッと逃げているだろう。

これが日本の姿になっているのだ。