哲学が必要だ。

ゴッホの「ひまわり」にトマトソースをかけた環境運動家がニュースになっていた。しばらくしてまた、モネの絵にマッシュトマトをぶちまけたという。環境運動家はテロリストと呼ばれた。外国だけじゃない。日本も同じことなんやで。私がいつも書いて批判する「考える会」というトリックの酷さよ。

最近は全国大会と称して、たくさんのそういったスパイ工作員が集まって「土砂崩れが心配だ」と雄叫びを上げている。国策として仕掛けられた隠ぺい作戦だよ。何を隠しているのかは、それぞれに見方があるだろう。政治が深く関わっているのは、あの統一教会と似ているのかもしれない。環境運動の方が、国連を舞台にしていて大規模よな。

これらを見て思うのは、日本人に哲学、philosophyがないことだ。今朝の正論欄には文系だ、理系だ、と理屈をつけているけれど、的外れもいいとこだよ。だから女は、と言ったら怒られるか。私は勉強ができなかったので、高学歴な人を見ると無条件で尊敬してしまうし仰ぎ見る自分の姿に情けなくなっている。

長岡技大でも卒業するのに一生懸命だったのだ。それでもな、風力被害を通じて、有名大学の教授が、見え透いた嘘ばかり言うのを見ていて、これは違うな、とやっと劣等感を脱ぎ捨てることができたのだ。私が卒業した和高専や長岡技大の先生たちのアホらしいことよ。低周波音を計ってはならないと怖気づくその根拠は何なのか、と真剣に驚いたものだよ。

彼らはタダのアホだったのだ。彼らには哲学がない。そりゃぁ、確かに彼らは勉強が出来て優等生だっただろう。しかしこの有様はどうだ。恥ずかしいということが分からないのだ。人間性の低レベルなことよ。聖書や『歴史』に出てくる奴隷そのものではないか。同紙には同じ文章がまたあった。水俣市の記事で、「水銀病」にしろというのだ。

冗談じゃない。水銀は原因だけれど、世界にその名を轟かせたのは実に水俣の社会風土ではないか。水俣宣言の空疎なことがこの一文で分かるのだ。今もたくさんの被害者が裁判を続けている。水俣被害は認められない。風評被害に名前をすり替える。風力発電の被害と同じだ。

40年前、技大の学生だった時に水俣病と、汐見先生の香芝高架橋の低周波訴訟が賑わっていた。他にもたくさんの公害が社会問題になっていた頃だ。担任の早川典生先生はアセスの専門家であった。それでさ、気にするともなくいつか心の奥に沈んでしまっていたのよ。こんな所で、百姓しながら思い出すことになろうとはな。水俣の悪口は言うまい。

ジョニーデップの映画「MINAMATA」を拒否したことで十分だろう。「哲学に根拠なんてない」、同じ言い方に、「被害の基準は被害者にある」、とても抽象的だが、本当の事でしょ。風力発電の低周波音被害では、被害者は目まいや耳鳴り、頭痛で苦しむ。根拠を示せ、と言われても頭の中の出来事だ。

たぶん内耳の器官が損傷していると医学論文には書かれているが、誰もそれを取り上げることはない。日本では精神疾患のもの、あるいは障碍者が自分の症状を訴えているだけ、とされている。笑いものにされて終わりよ。いや、虐待に迫害が待ち受けている。泣き叫ぶ被害者に容赦のない苛めが襲う。人々はそれが面白くてならない。

「アホよら、アホよら」と踊ってみせる。何かそうまでして人を死に至らしめて笑うのか。その風景を見て何で、人は笑うのか。人の不幸が面白いんやね。発展途上国の貧しい社会やないか。その昔、一億総中流社会なんて話もあったのにさ、とても懐かしい。だからこの転落を見てその落差に、どうしていいのか言葉が見つからない。

札幌駅を歩いていると、中国人が見栄えの良い服装で颯爽として歩いている。日本人はいかにも見すぼらしく俯いて通り過ぎる。支配者と、植民地の人たちの落差を見る。もう誰の目にも明らかだ。たくさんの風力発電にメガソーラーが目につく。金儲けのダシだけではなく、日本の社会を貶める仕組みになっている。

産官学、市民運動を交えての洗脳、カルトになっている。「市民風車に被害はない」なんて象徴的でしょ。philosophyがないと分からないか。じゃぁ、クリティカルパスではどうだ。正解は初めからある。何のために、という疑問を持とうじゃないか。ハネッカエリの環境運動家に騙されたらあかんで。タダのオチョクリ連中だよ。

由良町の風力発電の低周波で苦しくてならないのだ。


ゴッホの「ひまわり」にトマトスープかけたお粗末な犯人の言い分(JBpress) -Yahoo!ニュース


モネの作品にマッシュポテトをぶちまけ、環境活動家が抗議「人々は飢え、凍え、死んでいる」