米を食べない日本人

玄米1俵、60㎏で1万円。去年と同じことらしい。由良町でも随分と田んぼを作る人がいなくなっていた。来年はもっと少なくなっているだろう。どこから話始めようか。私は米農家だから詳しいのだよ。トラクターが200万円、コンバインが200万円、田植え機が50万円、乾燥機100万円、籾摺り機60万円、20年ほど前に買った値段だから今はもっと高くなっている。

例えばトラクターでも300万になっている。自動車みたいに大量生産じゃないからね。クボタとかヤンマーだとか、メーカーも限られている。世界的には一番優れものらしい。機械が不得手の私でも、なんとか20年を使ってきた。しかし古くなってもう駄目だね。自動車を20年乗ったらどうなるか分かるだろう。

アスファルト舗装された道路をスイスイ走るんじゃない。田んぼの泥水の中で汗まみれになっての過酷な作業よ。五反百姓という。5反(50アール)あれば、何とか一家が生活できる基準みたいなものだ。貧しい百姓にとって、プライドを掛けた限界値だ。日本全国では、大体こんな百姓が多いでしょ。

だから農業機械を共有する人が多くいた。3軒とか4軒の百姓が協力して購入したものさ。でも稲の刈入れの季節は9月、台風や雨の日が多い。取りがちになる。百姓はみな身勝手だからケンカになるわな。台風の後の稲刈りなんか、米じゃないで。やって見れば分かるって。その味の悪いことよ。1反に8俵取れるとしよう。5反で40俵になる。

つまり、上手く行っても40万円の収入だ。これに肥料代、農薬代がのし掛かる。機械の整備費、故障もバカにならない。これではアホらしくてやってられないだろう。これがさ、北海道の様に10haになったらどうか。大規模化すれば効率がよくなって、採算が合うのか。そんな話は聞いたことがない。逃げ出した農民の話はよく聞くけどな。

秋田の八郎潟の入植した集落を見れば良く分かるで。今は風力発電でいっぱいだと喜んでいる。由良町のような中山間地の稲作はほとんどが終わっている。稲作文化の歴史は途絶えることになった。大体、日本人が米を食べなくなった。粉にしてパンにして食べると言う。違うな。小麦は、米の値段の1/3か、1/5でしょ。

アメリカやオーストラリアでは、もっと安いだろう。そりゃ値段負けするわな。オニギリは負けたのだ。60年前、私が子供の頃は、白い米さえ食べられずに、麦を炊いて食べていたやないか。その麦もない家は、芋をふかして食料としていたやないか。みんな貧しかったのだ。白いご飯を腹いっぱい食べる。それが幸せだったのだ。

作家の北杜夫、ドクトルマンボウは、ご飯をわざと噛まずに素飲みする、その感覚が嬉しくてならないと書いている。それほど白米のご飯は神々しいまでに威力があったのだ。母の実家に遊びに出かけた時、私が行った時だけ白いご飯になると喜んでいた。みんな同じような生活だったのだ。さてさて、じゃぁ、米作りを止めて麦を作るか。

もっとダメなことは値段で分かる。百姓はもういらないんやね。海外から安いコメや麦を買ったらよい。結論はそんなことか。ここでまた風力発電の話になる。風もないのに風力発電が回っている。低周波音の影響で、人々の精神は病んでいる。環境省の報告書にあるように「精神疾患のもの」と言う意味がよく分かる。その通りだよ、と私も思っている。

人々は笑いが止まらない。「ワシらは面白うてならんのや」と百姓は繰り返す。「アホよら、アホよら」と言う言葉は何度も聞くうちに聞き飽きたよ。まさに社会の崩壊だ。そして米作りが止まる。草ぼうぼうとなり、樹木、あるいはメガソーラーの風景になる。これってさ、地域社会の破壊だよ。大阪や東京はよいだろう。

地方へ行くと風力発電とメガソーラーの町になる。そんなところに誰が住みたいものか。少子化、過疎化、廃村、廃町、これが国策の姿だ。役人たちの非情な言葉が胸に突き刺さる。「ヘッ、アンタだけだよ」と。政治家の誰一人として、被害に抗議する人はいなかった。いや、むしろ真逆であった。このページの初めの頃を見るがよい。

由良町の議員さんたちは何を言ったのか。役場とは何だったのか。最後の店じまいだったのだろう。その後、誰と話しても話がかみ合わない。まるで宇宙人と話しているみたいだ。私が間違っているのか、彼らが達観しているのか、結果は目の前にある。テレビニュースでは、岸田首相が「再エネを加速する」と言っている。

ディストピア、そんな小説、映画がありましたなぁ。和歌山では今、県知事選とかで3人の人が争っている。どれもこれもボロボロだ。こんなものしかいないのだよ。古事記の初めに、稲穂を手渡して「わが産みの子の~」と書いてある。稲作文化は今も宮中行事だと言う。これを無くしたら日本じゃないで。