正義はなく限界があるだけ

以前、イプセンの『民衆の敵』を紹介した。100年前に、なんと私と同じ人がいたのだと驚いたものよ。同じ気持ちになる人が各地にいたらしく、何度も映画にされたという。成功はしなかったらしい。そもそも、そういう物語だからね。今日の記事には「デスノート」の紹介と、沈黙と秩序、という全体主義のおぞましさが「戒厳令」カミュにはあると書いている。

カミュは難しくてよく分からなかった。私の正直な感想だ。具体的に掴みきれない空想の世界が多いからだろう、と思っている。それでも今のコロナ禍、そして風車病の惨劇を見た私にとって、記事の紹介文は、こういうことだな、と全体主義の恐ろしさを見せてくれている。コロナワクチンを打つにしろ、打たないにしろ、感染はするらしい。

どちらも被害はある。これらのリストはCDCの報告書にあるように、デスノートにまとめられている。「因果関係はありません」という説明書付きだ。私の前ページにも、資料を添付して、不思議な表現だと書いた。《こうやって、少しずつ曖昧さに慣れさせるわけ》上手いこと書くわな。風力発電の低周波被害では、初めから被害者対策として、専門の環境運動家を張り付けていた。

風力被害者はデスノートに記入されていたのだ。汐見文隆医師は被害のメカニズムを低周波測定器で観測して、分析図に表して説明した。h18年のことだから世界的にも先駆者だった。ニーナビアポントの『Wind Turbine Syndrome』が2008年だからね。日本では、風力発電の低周波被害は国家権力により否定されてきた。そりゃ、役場職員や風力業者は大威張りするわな。

少数の弱者となった被害者を虐待して笑いものにする。こんな面白い遊びもないだろう。その上に褒められて表彰までされるのだ。軍隊の勲章と同じよ。敵(被害者)をやっつけました、ってか。それが絶対的な正義だ、というのだ。「由良町、風力発電」と検索すると、その様子が分かると思う。しかしな、由良町に風なんか吹いてはいないのだ。風もないのに風車が回っている。

「正義はなくて、限界があるだけ」、かつてのナチスドイツやソ連の粛清を見るようではないか。被害者だけがワリヲ食っている。今の平和な日本の社会で、堂々と被害者が消されている。Twitter などで被害情報を懸命に流してみたけれど、誰も反応する人はいなかった。「あほか」というのだ。「土砂崩れが心配」なんて言葉が風力発電やメガソーラーの代名詞になっていた。

これが日本の世論であり、レベルの低さだったのだ。英語でprotest wind farmと検索すれば、世界中の風力反対運動が出てくる。ドイツ語やフランス語で検索すると、さらに詳しい各地の抗議運動が手に取るように分かる。なぜ日本人は世界の情報に関心がないのか。お上に言われたことだけウジウジと隷従して喜んでいるのか。それが処世術なのか。

私は違う。たぶん私と同じように、被害者を虐待する人たちを見て、不愉快に思う人もいるはずだ。情報がない、のではない。倫理をなくして、いったい何のための社会なのか、と怒ろうではないか。