笑えない日本人

我家の駅前アパート「東荘」には、たまたま40年ほど、アラビアから石油を運ぶタンカーの船乗りが住んでいた。段ボール箱にドッサリと入ったアダルトビデオをもらったかな。こんなもの見ながら3ケ月も半年も、海の上で生活するのかと思ったものよ。今はイラン・イラクでプラントの建設に携わっていたという人が住んでいる。

当時は給料が高いから、3年働けば、日本で土地が買えて家が建つと言われていた。実際にそんな裕福な人を何人も知っている。とくに英語が分かるわけでもなく、親方に言われるままに溶接棒のスパークを見ながら、頭上を飛び交う戦闘機におびえながら、貯金の溜まるのを楽しみにしていたことだろう。彼らにとっては輝ける青春時代だったのだ。

10年ほど前になるが、我が家には、それこそ世界中から若者が蜜柑採りや稲刈りの体験に押し寄せたことがあった。私にも受け入れ能力があるのでずいぶんとお断りした。ケンカもしたし、追い出したこともあった。要領よくホテル代わりに使われたこともあって、腹を立てたものよ。

人の好さだけでは通用しないことを教えられた。でも全般的には、人に好かれるように、コミュニケーションの重要さをこれでもかと見せられて、教えられることの方がはるかに多かったと思っている。それで今日のこの記事だ。アラブ社会で生きていこうと思ったら、日本では想像もできないような差異に戸惑うに違いない。

細かいことは言うまい。ムスリムと話していて、私にはとてもその話についていけなかったのだ。しかし私にも思い当たる節がある。10年前、京都大学の教授たちが由良町に視察に来た時、「和歌山はまだ徳川の封建時代、江戸時代だね」と言われたことがあった。表面上は洋服を着て、自動車に乗って文明化されているように見えるけど、意識はまだ江戸時代と変わらないな、というのだ。

最近、やっと私にもその意味が分かってきた。私自身、先祖は京都からの都落ちで、しばらくして南朝側について戦って、今日まで生き延びてきましたと言っている。私は二丁歩、2haの田畑を耕して農業をしているけれど、誰も私のことを百姓だとは思っていないだろうと感じている。意識が違うのだ。当然、相手方の人々も同じようなものだろう。

この人、なんかヘン、と思っている。たぶん。それでも由良町の人たちを見ていて、この状態は変わらないな、と思うのだ。日本独特の社会風土なのだ。アラビアがそうであるように、アメリカが偉そうに見えるのも、それはこれまでの権力機構が築き上げてきた歴史の賜物よ。生きるためのしがらみなのだ。

これだけ国際化、グローバルと言いながら、この記事は逆にその違いを明らかにしてくれている。そこから学ぶことは大きいと思う。特に日本人の閉塞感、八墓村のような昔の空気、視野狭窄と思考停止の議論、アフガンなんかと関わってはダメだけれど、鎖国政策じゃないんだから、常に世界の情報に触れている必要はあるわな。これだけでも村八分になるか。