由良守應のこと

由良守生の名前は、守應にあやかっている。分家のオッサンだから、とくに何ということなく過ごしていたけど、風力発電の被害にあってから世間の厳しさを見ると、やっと彼の生き方にすがる自分がいた。親父や祖父の代にトラブルがあって、三男坊の親父が跡取りになる。気楽な三男から、急に厳しい百姓生活になる。筍や松茸を売っても金額は知れている。日雇いの土方仕事が収入になっていた。変人、と母は言っていた。

少し前まで由良港で海運業に関わっていたけど、鉄道網が出来て、世の中が急変していく。古い家柄特有のカチンコチンな価値観に、生活苦に、赤貧洗うがごとしだった。雨の日は、屋根から滝のように雨水が流れ落ちる。部屋の中にだよ。当時はどこの家でも同じような有様だったけどな。ふと東京での守應宅の地図を見る。西郷隆盛や木戸孝允よりも広いやないか。

幕末は牢屋暮らしをしていて、明治になっても宮城の刑務所に3年も行っていたという。それがなんで明治天皇の馬車係なのか。岩倉具視の西欧視察に同行するのか、混乱した時代でも、かなり特別なけもの道を生きたことが伝わっている。和歌山城から田辺市の牢屋まで、密閉した籠に閉じ込められて搬送されたとある。図面付きだよ。晒しものだよ。その後に追放処分になっているから、淀川の辺りで非人暮らしかと思うわな。

それが京都へ行って勤皇公家・庭田中納言の所で密偵として働いていた。伊藤博文や土佐の志士たちと交流したらしい。江戸桶町の千葉重吉の道場では目録を貰っている。弟の渓五郎は免許皆伝で、長州藩士200石になっていた。時間的に考えても、濃度の濃い、忙しすぎる記録が残されている。何が本当の事なのか、たぶんすべて本当なのだ。安政の大獄では、なんで殺されなかったんだろうか。

同じ和歌山藩士で、陸奥宗光と仲よくやっていた。引退して和歌山に帰る時も同じだ。気性は全然違うのに、珍しい取り合わせよ。東京の自宅では同居していたらしい。由良町の自宅にも遊びに来るくらいだから、よほど気兼ねがなかったんだろう。彼の本名は伊達で、東北の出自だ。それが家柄自慢の由良と、なんで話が合うのかと笑える。彼らの世代は大らかだったからね。殺し合いした割には、あっけらかんとしていたと思う。

明治政府で働くんだから当たり前か。それに比べると、南朝側で戦った歴史はいまだに我々の精神に深く刻まれる。祖母や曾祖母は楠木正成の子孫だ。菊水紋の古いものがたくさん残っている。敵・味方、ハッキリしたものよ。年寄りが、「わが先祖は後醍醐天皇を擁し奉り、」と言い出すと泣いていいのか、笑っていいのか胸が詰まるのだ。南朝方の子孫は、皆そうでしょ。私が子供の頃はまだ、守應を直接見た人が生きていた。

手の届く歴史物語よ。怖かったって。そりゃぁ、死線をさまよい生き抜いたのだ。守應は刑務所に行っていたんやで、とからかう子供、それを吹聴する親・世間があったことを知っている。祖母たちは守應の大ファンだったからね。家族とは大切なものさ。私は最後の相続人だ。どこかに小判を隠してないか、と探している。残されたのは古井戸と石の手水鉢だけか。気位の高さは先祖伝来さ。

こんな事で私の風力反対・抗議運動は一人でも悠々と?やっている。裏切り、とよく書くけども、そんなことは大したことじゃない。明治維新でも、歴史の転換期でも、時代の価値を決めるのはほんの一握りだ。カネや名誉がすべてじゃない。財産なんて、我家より広い百姓はいくらでもある。分相応に、自分を信じて生きるしかない。それでな、由良町のように風力発電に支配された地域は、皆さん環境に適応して生きているんだろうか。

私は、それを自己家畜化していると決めつける。私の方こそ、適応障害か、と思うことがある。世界では一様に、風力被害に抗議して、風力反対と言っている。日本政府だけ、日本の社会だけが、風力日本一とか、自然エネルギとか吹聴する。由良町畑地区では被害の苦しみに泣き叫ぶ人を見てきた。そして死に行く悲劇もな。弾圧の凄まじさに人々は大喜びする。なんでや、と私一人だけが反抗していた。

これが私の考え方だ。私だって人並みに人の悪口が大好きさ。それでもな、人物破壊と言って、ファイリングして、組織的に、被害者や反対する人を消し去る策略に、誰も「止めろ」と言えない精神に嫌悪しかないんだ。生贄が面白いか。そんな社会こそ、被害地域と云うんだよ。ドブ水を飲むような、地獄の風景なんやで。由良守應は明治を颯爽と駆け抜けた。大いに繁盛した。栄枯盛衰とはこんなモノなんだろ。