googleで検索していて、私も随分と記事を書き連ねてきたものよ、と我ながら感心している。インターネットは既にiphoneなどの手軽な端末の普及とともに誰でも使えるようになっている。snsとかいって、コミュニティサイトも盛んだ。私はtwitterにたくさん書き込んだ。反応はない。これだけ各地に風力発電の被害が拡散しているのに、誰もその被害を訴えないのだ。
汚い地域対策があったとしても、誰かがその間隙を縫って、「助けてください」と声を上げてもよさそうなものじゃないか。かつて東伊豆町や南伊豆町、伊方町などの被害者がたくさんの抗議文を書いていた。私はそれを真似て始めたのだ。彼らの書いた被害報告書も参考にしてきた。今はそれらの痕跡は跡形もない。見事に消し去られていた。
そして「被害はありません」と判で押した返事だけが返ってくる。低周波被害者の会の窪田泰さんのブログには、それらの経緯が詳しく当事者の目で書かれている。「奴らはみな噓つきだ」と、コテンパンに叩き出された物語が書かれている。ドロドロした場面ではあるが、一見の価値がある。私の書いた『風力発電の被害』も同じようなもので、一般の人には分かりにくいだろう。
その場にならないと、「風力発電の被害とは何か?」現実に何が行われているのか理解することはない。2018.1/20、1/22日、2019.2/7日、10/28日のページに、谷口さんの弁があるから聞いてみたらよい。いかに人々が被害者を虐待して喜んでいたかが分かるだろう。谷口さんが亡くなった時、それらの人々は手を叩いて笑ったのだ。今もその状況は変わらない。
「ウソつくな!」と人々は激高して叫ぶのだ。あるいはせせら笑って、優越感に顔を歪ませている。かつて谷口さんが交流していた環境運動家たちもそうなのだから、初めから仕組まれていたものだった。いや、それを最初から指摘するジャーナリストはいた。あたかも心配そうに風力発電の被害を訴える人に優しく囁くのだ。「いつまでもこの状態は続かない。
今は抗議する時ではない」とかさ。「彼らはいったい何者で、何を目的としているのか、それを知ることが先決でしょ」と私に伝えたものよ。「まずは自分たちがどんな酷い状況に置かれているのか、自分で知る必要があるでしょ」というのだ。ところが被害者というもの、人は虐待されると簡単に人間性を無くしてしまう。動物にされるのだ。
弾圧する方は組織的な仕事だから笑いながら弱い者いじめをすればよい。ユダヤ人のホロコーストと同じことよ。社会的に敵を作り、せん滅することが喜ばしいのだ。畑地区の被害者たちは、それこそ笑い話にしたいほど簡単に消されていったよ。当人たちは泣き叫んでいたけど。それを今は誰もが「風力の被害なんて聞いたことがない」と言っているんだから大した悪党よな。
私にはとてもできることではなかったのだ。これは由良町だけでなく、全国各地の風力被害地で同じ現象だ。風力発電の被害とは、大体がこんな感じで纏められるだろう。最初から言われていたように「社会が破壊されるんやで」ということだ。最近の論調にも、ディープステートの言葉を使って、同じ社会事件を書いている。社会の分断が明らかになる。
由良町では私一人だから村八分か。被害者になっても、加害者になっても、なんと醜いことだと思うのだ。風力裁判を振り返り、つくづくそう思っている。由良守應は安政の大獄を生き抜いたが、それに対する恨み言は聞いていない。むしろ笑い話として、私は何度も祖父母から聞かされた。「女の人のお尻を触ったからよ」とさ。