頼山陽の本を読んでいて、彼の人物評・悪口が的確で面白かった。『日本楽府』は有名でな、幕末の志士はこれを読んで奮い立ったという。ところが出自は武士ではなく学者さんの放蕩息子だったらしい。その息子、三樹三郎は安政の大獄で死んでいる。由良守應と同じ世代だ。随分と中身の違うことよな。「才を恃みて傲慢なり」、芸は身を亡ぼすというから、そのとおりだ。頼山陽は古典でもないし、近代思想でもない。歴史の紹介かいな。
それにしては胸の躍る思いがするから、太鼓持ち、鉦叩き、みたいなものだったんだろう。才能に恵まれたら大変なことになる。私とは立場の違う生き方に、「人が生きていくって大変!」と感心する。我家だっていろんな事件があるからね。こんな田舎町にいられるか、と親父でさえ言っていたものよ。風力発電の被害を境に、その意味が明確になる。話には聞いていたけれど、実際に人々の生の声をこんな形で聞けたことに、身分差、歴史観の違いに唖然と立ち尽くすのだった。
まさに千年前の都落ちした時と同じ有様よ。これが巷の人の現実かと驚くだけだ。テレビや新聞で、今ではインターネットで、こんなに大量の情報が伝えられるのに、人の心は何も変わらない。由良港は南海道の東端でな、九州や四国の人が上陸して内地に散らばっていく。通過点、風通しのよい社会風土だと思ったんだがね。結局は相いれることのない、対立軸が露わになる。何もいきり立つ必要もないのにね。公家、家柄が羨ましい、疎ましいと聞く。
「エシミ」というらしい。私にはその感覚が分からない。初めて他所から嫁に来た母は、なんでこんな目に遭わなあかんのや、と怒っていた。祖母たちは楠木正成の子孫で南朝方で戦った同志だからね。意識差がある。風力被害では、人々のあざ笑いにあって村八分の嫌われ者だ。意味が違うけど、スライドしただけで差別心は変わらない。蔑視。どちらが❓という思いに笑ってしまう。畑地区では被害者たちは涙を流して泣き叫んでいた。
溢れる感情を持て余して、「出ていけっ」と叫ばれた。元々が信用も何もない。別人種なのだ。それを煽るのが「考える会」、環境運動家、役場や風力業者の仕組まれた罠であるのは分かっていた。それでもな、私の悪口の拡散することよ。それほど私が憎いか。まぁ、狂い死んでいった被害者を見ているから、それからすればお気楽な被害者になるのかもしれない。あの時、何度も気絶して倒れていた。
甘夏採りに、水槽から転落してろっ骨(5番目と6番目)二本を折った。無理して作業したおかげで、ぎーこ、ぎーこ、と骨がすり合う音を聞きながら苦しんだ。人々の笑いようよな。それほどに私が苦しむと可笑しかったんだよ。これが被害地の人々の精神性だ。他の被害者でもそうなっていた。被害者は誰だか分かっているから、その人が死ぬと笑っているんやで。また死んだ、とか言ってな。地獄の風景なのに、誰もその恐怖体験を訴えることはない。
人間レベルが低い。動物なんだよ。そういう地域、そんな人たちでしかない。私の住む門前地区でもそれは同じで、昔からの親類なのに、敵意だけになっていた。やはり家柄意識が恨みになっていたんだろうか。由良の血は一滴もない、それが自慢の種らしい。風力思想だけが受け入れられる。被害など聞いたこともない。ワシらは役場を信じている。何もかも任せてある。その時になったら判断する、だって。たくさんの人と話したからね、受け売りの言葉と奴隷用語。私とは違う。
これが全国各地の風力発電で行われている。私のように反対、抗議する人はいない。「土砂崩れ」と言う人ばかリだね。数がないと始まらないとか。「野鳥の会」とか行政と一緒になってワイワイとやっている。環境運動会みたい。風力被害者がいて苦しんでいるのに、それはまた別の話になっている。目的があるんだね。ただ操られる人々「お花畑」の正体だ。誰も本当の事を言わないんだよ。ファシズムやね。
みんなと一緒にしていたら安全で楽しいらしいで。被害者でもな。私の悪評は、今や全国版だろう。由良町だけでなく、風車群が林立する秋田や山形でもヘンな人、になっている。悪党は皆大喜びよ。裸の王様だね。やるだけはやった。少しは汐見文隆医師などに近づけたと思う。答えは初めからある。アホ役と思いながらも、これしかないんだよ。被害の原因はオマエの悪意だ。







