なぜ誰も反対しないんだろう。

先日、関電からエコキュートにしませんか、と営業の電話があった。オール電化のプランもありますけど、ともいう。私は薪で風呂を焚いているし、一人暮らしだから、ほとんど電気もガスも使わない。もしかしたら山田征さんといい勝負をしているかもしれない。もともと田舎の百姓なんて貧乏性だからね。お金のかかる生活にはなじめない。

ふとこの記事を見ると、風車の直径が164mもある巨大な風力発電が20数基も建設されるという。海岸には人も住んでいて、景観の破壊や低周波被害が心配な人もいるだろうにと思うのだ。同じような風力計画は、由良町から御坊市にかけて150基が予定されている。夕日がきれいな地域だから、シャドウフリッカーがすごいだろうなと残念でならない。

今もたくさんの風力被害者がいるはずなのに、誰も抗議する人はいない。私だけになってしまった。電気は余っているという。再エネ賦課金という別の財布を作ってまでして、なんで風力発電の建設なのか理由が分からない。しかも被害にあっても「法律的な根拠はありません」と拒否される仕組みになっている。

どれだけの風力被害者が泣きながら死んでいったことか。それを面白いと言って手を叩いて踊って見せる人がいる。生贄の儀式なんやろう、と最近気が付いている。ヒツジにされたらもう終わりだ。h24年当初も、被害者になるとロボットのようになる。薄っぺらな人になる。と風力被害者たちを見て感想を聞かせてくれた人がいた。

全国には、そうして消されていった被害者がいるでしょう。私は、明治になってから日本は近代化して古い風習なんか消え去ったものとばかり思っていた。人柱を建てる。生き仏になる。西方浄土に送り出す。腹を召される。散華する。いろんな言い方をしてきたものよ。だが今回は、精神疾患のものとして貶められて消されていく。「アンタだけでしょ」と。

風力被害者は、ただ黙って消えていくしかないのだ。伊豆、伊方から始まって、風力発電の低周波で多くの人が苦しみながら亡くなった。なぜ誰も抗議しないのか。ヨーロッパやアメリカでは、たくさんのグループが、個人が、風力発電に反対しているで。日本でも反対運動、抗議運動を始めようやないか。

環境運動家たち、考える会や、風車ネットとかは、風力事業の一環として機能している仕掛けやからね。ダマされたらあかん。「Stop wind turbines ! 」「Kein windpark」で検索すると、海外の反対運動が出てきます。 まっとうな反対運動をやろうじゃないか。