江戸城の清水御門前に守應の自宅があった。明治の元勲、木戸孝允や西郷隆盛らの記述がある。どうもおかしい。敷地面積が倍もある。古い絵地図が残されているから確かな話だ。ここで桶町の千葉道場の門弟たちと牛や羊を飼って、牛乳を売っていたという。これもおかしな話よ。陸奥宗光は守應宅に居候していたと聞く。
道理で陸奥の名前は地図にはない。場所が特殊なだけに、カネを出せば購入できるものではないだろう。和歌山の百姓の子倅が、どうしてこんなところに名前が残されたのか。明治維新とは何だったのか、と理由が知りたいと思っていた。和歌山を追放されてからは密偵として働いたと言う。私は信じてはいない。
大男で派手な面白い性格だったと言う。ヒソヒソと、小話出来る小器用な人間じゃない。聞くに堪えない方言を大声でがなるだけ、私も学生時代によくそう言われたからそんなものだっただろう。伊藤博文などの護衛をしたと言う。護衛というよりは、先頭に立って、堂々とノシ歩いたらしい。当時はやりの勤皇刀の大刀を閂刺しにしていた。
その刀は伝わっていない。誰かとケンカしたという話もない。後日の話によると、姿を見るだけで恐れられていた。人の世話を良くした。由良周辺の人は守應を頼って東京に行ったとも聞く。写真の石碑も、昔世話になったからというおせっかいな話だ。親父や祖父は、ま、いいか、と許可した。私が6歳の時に除幕式をした。
その場面だけ鮮やかに記憶に残っている。まだ守應を直接知っている人が生きていた。でも本当のことを知っている人は誰もいなかっただろう。今も歴史の中に埋もれた「まさかな」という人生だっただろう。彼の墓には、わざわざと「士族」と書いてある。なんでやろ。これも疑問だ。我家の墓にはそんなものどこにもない。
亡くなった後での誰かのイタズラかもしれない。いきり立つものがあったんだろうか。たくさんの言い伝えを聞きながら、いつか由良守應の人生を書きたいと思っている。その前に『風力発電の被害Ⅱ』を書かなければならない。なんで日本だけが被害者を弾圧して笑っているのか、この不思議もスゴイと思うのだ。
結局、こんな家庭の事情が、私をして風力被害に立ち向かわせる理由になっている。誰も言えないのなら、私が言ってやろう。人が風車病に苦しみながら死んでいく。それを笑って喜ぶなんて人のすることじゃない。