私は嫌だね。

難しい言葉遣いで国家理性と書いているから、何のことかと思ったら、下段に赤線を引いたとおりの「所詮運命だった」と結論している。それをまた〈奥行きのある〉と自画自賛しているのだから救いようはない。アホか。私はつい言葉にしてしまったよ。

『終戦の詔』にもそういう言葉があって、「時運の赴く所」とあり、安岡正篤の本に、講演に、何度も、あれは間違っている、と言っていたものよな。それが大義なら良かったのか。そうじゃないだろう。結果のある話に、何を言ったところで言い訳にもならないバカらしさが透けて見える。

大本営発表のウソの繰り返しよ。こんなものに大義なんかあるはずがない。今や大本営発表というと、ウソの代名詞になって普及しているではないか。毎年八月になると戦時中のフィルムが取り出されて「大本営発表」という金切り声の放送風景が再現される。なぜ日本人は「アホか」と言わないんだろう。

あの戦争のことは国防婦人会をしていた祖母らから聞いている。「あんな戦争で死ねるかよ」大叔父は兵役拒否してそう言っていた。戦時中でも情報があったらしい。一億玉砕火の玉だ、なんてプロパガンダの中で、何が真実なのか見極めていたのだ。

白洲次郎などもNHKドラマの中で兵役拒否しているから、結構、戦争に反対する人はいたんだろう。叔父などは召集令状が来て兵舎に行ってみると、君は生きて日本のために尽くしてほしい、と言われて返されている。飯盒や水筒、毛布などの支給品を土産にもらって帰ってきた。

この記事を見て、今の再エネ政策も同じことの繰り返しやな、と思うのだ。今日の週間天気予報を添付した。全国的に雨模様だ。太陽パネルは役には立たないだろう。風力発電の風は吹いているのか。そんなものどこにもないことぐらいは、もう誰でも知っているだろう。由良町は今、ほとんど風はない。

それでも山々にある21基の風車は回っている。こんな田舎町で使う電気よりも、風力発電を維持する電気量の方がはるかに電気を消費している。電気は余っていたのだ。太陽パネル、メガソーラーでは、政治と業者の癒着が泥沼になっているという。

補助金や再エネ賦課金のカネの流れが、それぞれの部分だけでなく、全体を見渡してみると、いかに巧妙に仕組まれた集金システムになっていることか。アンタッチャブル、なのかい。電気自動車が普及するから、家庭の蓄電池として利用できるという。ウソつけよな。

こんな見え透いた嘘の上塗りを繰り返しているのだ。日本人は誰も反論しない。評論家とか、アナリストとか、蠅のような煩わしさよ。環境運動家たちはカルトとなって、注入されたスローガンを叫んでいる。「土砂崩れが心配なんです」と。

今、世界ではリベラルとか言って、自由に個人が意見を発信できる方向にある。国策で教え込まれたキャッチフレーズだけを口ずさむ日本人のアホらしさよ。『自由からの逃走』なんて50年前の考えやで。私たちは、個人が、自分の価値観で考えて、何が悪いのか、何が間違っているのか、キチンと判断しようじゃないか。

少なくとも、この天気図を見て、じゃぁ太陽パネルはあってもなくても、どうでもいい施設なんだ、と分かるくらいの判断力を持とうやないか。風力発電の低周波被害では、被害者を弾圧して排除して喜ぶことが、何を意味するのかぐらいは思いめぐらそうぜい。各地の風力反対運動は、その意味からするとエセやで。