産経の提灯記事、ダム

私は土木科を卒業して建設会社に居たので、ダム工事が社会に必要なことは重々に分かっているつもりです。とくに黒部ダム周辺のダム管理事務所などには図面を持ってお邪魔したことも多々あって、ご苦労様です、という気持ちがある。それにしてもこの見出しは何だろう。「激甚化」とある。

洪水なんかは昔からあって、今更激しい言葉を使う意味があるのだろうかと思うのだ。たしかに河川管理は、治水、利水、環境、という順番になっている。流域に暮らす人々の生活を守ることが最大の責任だ。それを分かったうえで、治水事業にも「カネ」が絡んでいることも気になるのだ。

記事にある川辺川ダムのことは、新聞やテレビで散々経緯が説明されてきた。ダム建設地に、しがみついて生きている人がいるのだ。私も、なんだかんだ言って、由良町の我家にしがみついている。人が生きていくとは、こういうことなんだろうと朧気にも分かってきたのだ。

とくに前ページに書いた由良守應の秘密にあるように、風力裁判で、私が何者であるのか分かった気がするのだ。北海道では、ゾーニングと言って、一方的に学者や行政が縄張りを囲って、風力発電地域だと豪語している。そこに暮らす人たちに人権はない。モノ申す権利がない。風力発電の低周波被害は認められない。

こんな酷い弾圧はないわな。それに、あたかも心配そうに振舞う「考える会」という罠、仕掛けよ。風力被害を否定する御用学者を招いては、せっせと「どうしたら風力発電を建設できるのか、みんなで考えましょう」と繰り返す。被害者の私から見ると、アホらしくて話にならない。何を言っても彼らには通じない。

彼らの正体は、権力の手先になることが嬉しくてしょうがないのだ。あるいは、被害者に対する優越感よ。下見て暮らせ、ということだ。由良町では、最近大雨が降っても洪水被害はない。私が子供の頃、50~60年前は毎年、由良川が氾濫して、川沿いの田んぼが水没した。台風被害もすごかったことを覚えている。

しかし最近は、めっきり自然災害を見ることはない。たまに、蜜柑の木が、大風で倒れているくらいよ。これも各地で持ち回りなのかもしれない。和歌山は台風銀座だから、とくに自然災害を気にしている。九州や四国だって同じだろう。治水事業は、これからも必要な工事だろう。

しかしその土地にしがみついて生きる人を引き剥がしてまでダムを建設しなければならないのか。下流に生活する人は、それほどまでに生活権を主張できるのか。ダムを建設する理由とは、こんなものなのか。サンケイの提灯記事に、少しは疑問を持ってもらいたいのだ。

日本人はキャッチフレーズとプロパガンダに弱いからね。弱い者いじめが大好きなんだよ。もうダム建設の時代ではない。分に応じた生活があるだけだ。