風力発電の支配、従順に、そして熱烈に

春の嵐が過ぎ去ると、暑い日差しと、風力発電の有害な低周波の余韻が辺りを覆っている。「風車が止まった時、何とも言えん苦しさがある」と被害者は一様に言葉にする。環境の変化に耐えられないんだろうね。Steven Cooperの論文には、風車の稼働と、被害者たちの感覚の相関が記録されている。つまりな、因果関係がある。風力発電に人々は支配されるのだ。

虐待と洗脳。何のために風力発電をやっているんよ、という怒りはどこの国でも同じだ。海外にはこんな調査報告書がたくさん知れ渡っていて、健康被害があることも常識になっている。日本だけ、それがないのが不思議だと思わないか。水俣でも、被害を否定する学者が威張っていた。学者という人種を地に貶めた事件は有名だ。

これと全く同じことが、風力発電の被害でも繰り返される。なんせ環境省の報告書には、被害を訴えるものは精神疾患のものであると明記されている。この辺でもう、異常な被害の否定が堂々と行われている現実が分かるだろう。s57年、小林先生、汐見先生による香芝高架橋の低周波訴訟で、ボックス桁の発する有害な低周波の被害が明らかとなる。

だからこそ建設省は周辺の土地を買い占めて、橋梁を補修、改修して、その後の設計指針まで変えて対応したのだ。この時も低周波被害を否定する御用学者が威張っていたという。「低周波は自然界にはいくらでもある。その違いをどう説明するのか」というものだ。同じ論理に、放射能は自然界にはいくらでも存在する。原発の放射能とどう違うのか、というアホらしさよ。

一般の人には説明しにくいだろうね。どちらも被害があるからこそダメなんだが、日本の環境省は懲りることなく否定するんだから大したものだよ。その人の責任だというのだ。いつものやり方よ。とくに風力発電は自然エネルギーだと言って、地球温暖化だ、脱炭素だ、と言ったプロパガンダが国策となって覆っている。日本人には、あえて抗議の言葉もないだろう。

だってほとんどは田舎の人の住んでいない地域だからね。被害確率も低いし、知識や情報もない。被害者は、自力で、個人で被害の実態を勉強するしかない。そこに行政のバイアスがかかる。政治の圧力、環境運動家の悪党が襲い掛かるのだ。仕組まれた罠だから、これまで誰一人として抵抗できたものはいない。それで悪党たちは味を占めて弱者となった被害者を叩いて喜んできた。

ナチスのユダヤ人迫害と変わらない。海外と日本のエセ反対運動との違いは、比較してみると分かるでしょ。悪の花園になっているんだよ。死んで行った被害者、転居した人たち、被害者はやられっぱなしで消されてきた。それなのにさ、日本人って。とても従順になって抵抗する人がいないでしょ。健康被害があることは目の前で分かっている。

由良町の谷口愛子さんのように、私のように、苦しい症状をあちこちで訴えたでしょ。他にもいろんな被害者が風車病の苦しさを訴えて死んでいった。周囲の人はどう反応したのか。これがまた海外とは正反対の、被害者に対する否定、虐待だったのだ。なぜや? という感情がこのページを書かせている。

これまで普通に仲良く暮らしてきた田舎社会が、ある日突然に、被害者差別、蔑視の空気にすり替えられていた。タブー、というより殺人的な嫌悪を見せられる。被害者は泣き叫んでいたで。私を鷲掴みにして言葉にならない苦しさを訴えたものだよ。人々はそれを見て笑ったのだ。何がそんなに面白いのか。今もその理由が分からない。

そしてな、今、「風力の被害など聞いたこともない」と誰もが私に繰り返すのだ。これは由良町だけじゃなく、東伊豆町や伊方町でもそうなっている。全国の行政でお決まりのフレーズを聞く。恐ろしいことだと思わないか。全体主義に染め上げられていたのだよ。だからさ、私は海外の風力反対運動の様子を紹介しているのだ。海外ではこんなになっていますよ。

日本とはなんと違うことでしょ。とな。ところがさ、日本人にはその差が分からない。受け付けないのだ。風力発電の被害の否定に凝り固まっている。私の悪口で一杯だよ。そんなに私が憎いか。アホーどもめ。水俣では今も水銀中毒に苦しむ被害者が苦しんでいると聞く。40年前にその地域の人に聞いた話と少しも違わない。

風土病だと思っているが、深刻な被害に誰もが正確な言葉として表現できないでいる。裁判が続いている。認められないという。何を認めてもらいたいのか、私にはもう分からない。風力裁判も同じことで、人々は面白うてならんのや、と言っている。警察は「あんた一人でしょ」、とせせら笑う。

そんなものを信じていた被害者たちの悲しさよ。風車に支配された社会は、間違いなく崩壊する。風力発電は精神を破壊する。