長岡の思い出

あまり好きな文じゃないな、と思いながらアップした。私は長岡市の長岡技大を卒業した。小さな町なので河井継之助のことはすぐに分かったよ。当時はまだ田中角栄がいて、越後交通株式会社が大学をやっているようだった。日本医師会の武見太郎とか、新日本製鉄の斎藤英四朗とか、話題の有名人がいた。

そういう地域なんだろうと北アルプスの山々を見ながら学生時代を過ごした。和歌山にはこれといった人がいないからね。由良守應ぐらいか。誰も本当のことを知らない。田中角栄だって、ロッキードで明らかにされたように、田中金脈があって、あれだけの派閥、時代を築いた理由はいまだによく分からない。

日本列島改造論はキャッチフレーズだ。政治が、いつも紙面をにぎわせたものよ。今の政治家の小粒なことよ。長岡市では河井継之助はヒーローだった。地元スーパーの原信の社長など、エラク持ち上げてアピールしていたからね。アレレ、ヘンだな、と思ったのはずっと後になってからだよ。

「腰抜け武士の越す峠」、会津若松へのドライブの途中にそう書いてある。武士とは厳しいもんだなと思った。米百俵の物語もあって、なかなか難しい地域であった。なんせ半年は大雪に閉ざされるからね。残りの半年だけで生活を賄わなければならない。それも毎日のように雨が降る。

「晴れのち曇り、所によっては雨でしょう」という天気予報を聞いたときには笑った。今でこそコシヒカリが有名だけれど、乾燥機のない時代には腐れ米でしかなかったと聞く。それも収穫量が少ない。和歌山の半分くらいの収穫だ。1反に10俵(60㎏詰め)をセ引きという。私は我が家の田んぼで11俵採ったことがある。

ところが新潟では5俵あれば良いというのだった。二毛作はないしな。冬にすることがないから子供ばかりたくさん作っていたという。ちょうど大学では司馬遷の『史記』をやっていて、列伝の講義を楽しく聞いていた。行動哲学。河井継之助は、岡山県の山田方谷を訪ねて陽明学などを学んだという。

大政奉還の書を書いた人だ。こんな思い出が、今の私を動かしている。だからこの記事を切り抜いたんだろうね。この近くには須坂屋のソバ屋があって、友人たちとよくヘギそばを食った。セイロに並べられたソバを数人で分け合って食べる。学生だから皆カネがないので、天ぷらも何もない。

「オマエと来ると、いつも損した気分になる。俺よりもたくさん食っているだろ」と言われたものよ。就職してから彼らと須坂屋で再開した。旨い天ぷらも酒もある。バブルの時代だった。もう取り勝ちすることもなく、食べ残すのがもったいないか、と振り返る。因みに長岡市の美味いものといえば目指しだと聞いた。

内陸部の長岡で何でイワシの干物かと思った。それほどに貧しかったのだと言っていたのだ。おかげさまで長岡市にはエラク世話になったと思っている。それでも小耳にはさむ言葉に、「だから長岡人は嫌いなんだよ」と聞く。私はしょせん学生として、ホイホイとあやされて過ごすだけのものであったことを思い知る。

継之助にしろ、米百俵にしろ、大変な災厄だったのだ。その後の日本の歴史を動かしたんだろう。山本五十六を忘れていた。これも長岡出身だったよ。今、長岡市は大きな町になっている。当時はハリボテだと見ていた新築ビルも、それなりに賑わっている。新幹線が走っている。

私は彼らの活躍を見てあこがれていたようだ。青春時代に見たり聞いたりしたことは身に浸み着くね。一人、由良町で風力発電の被害を訴える。低周波被害、風車病だけでなく、弾圧のすさまじさ、人々の屈折した精神性を見る。私は決して英雄タイプじゃないからさ、どうやって良いのか、どんなやり方がよいのか、手の付けようがなかったのだ。

答えは、海外に多く見られるように健康被害とその恐怖心が明らかにされている。環境省がh23年度に書いた報告書にあるように、精神疾患だとする根拠はここにある。少し意味合いは違うけど、風力発電は精神を破壊する。こんなことはさ、日本人だって分かっているんだよ。ただ、それを言葉にできない。

それを言ってしまった汐見文隆医師や窪田泰、そして私が許せない、らしいのだ。なんで? と笑うキミ、理性をもって考えてみな。風力発電の被害を見抜くのだ。風力のキャンペーンやスローガンにのぼせていては真実は見えない。プラシーボじゃない。事実に基づいて、自分の感性、頭で判断しようじゃないか。長岡技大で、私はそう学んだつもりだ。