他人の不幸は喜びになる。

風車病に苦しみむものをあざ笑い、否定して消し去る地域対策のすごさは由良町で随分と目にしてきた。自分の事であるし、私に依頼してきた被害者たちの様子を最後まで見ることになった。他人の不幸は蜜の味という。それが地域全体に広がって、誰もが進んで地域対策の役割を演じていたのだ。

その面白がりの嬉しそうな演出は役場だけでなく、地域の人々に深く浸透していた。今朝の産経記事には、日本人にはもともと人の不幸を当てにして暮らしてきた歴史が、古くから行われてきたとある。わざわざ事故を誘発してまで利益を得ようとしていたという。和歌山にも同じ伝承があって、武士集団と言っても、その実は強盗集団であったと聞いている。

支給した刀を集めて神社に奉納した。何か病気になれば、あの時の祟りやで、と言って慄いたという。昔から熊野詣という。京都や奈良からの参詣を襲ったんだろうか。それらの地域には今も罪深い話が残されているだろう。我家は違うからね。もっと上品な地方豪族だよ。今朝の記事は、全国共通やな、と思ったものさ。

その確信的な強盗の歴史と同じではないけど、風力発電の被害は確実に地域の人を別の世界に閉じ込めている。ニヒリズム、虚無主義といったら分かるかな。これまで日本人が大切にしてきた文化や伝統、社会の破壊だよ。何か困っている人がいれば、誰かが助けようとする。助け合いの精神みたいな温かさがあったものさ。

海外の風力反対では、「Stop wind turbines !」(風車を止めろ)と言っているでしょ。被害に苦しむ人に寄り添い、風力被害は許さない、止めろ、と抗議しているのだ。それが当たり前の社会なんだよ。同じ社会性を日本人も持っていて、今までそれが当然と思っていた。人類共通の社会愛、といったら言い過ぎか。

でもそれが風力反対運動のベース、基礎なんやで。日本の自称・風力反対は、そのパロディーでもない。真逆なんだよ。被害の否定、被害者の追放。土砂崩れが心配だ、風車が心配だ、土砂災害だ、と狂気の嵐よな。ペテン師の汚穢、そこに集まる環境運動家たちの病的な風景よ。海外の風力反対と見比べてみると明白でしょ。

イメージとして、政治家や学者を担いで、風力利権の確保に一生懸命だよ。誰か一人でも、被害者がいて苦しんでいるから、とりあえず風車を止めよう、なんて人は誰もいないのだ。分かりやすい例が谷口愛子さんの記事だろう。誰か抗議したか。笑いものにして喜んだだけだったでしょ。それが日本人の価値観なんだよ。

私だけは御免だ、とか、雉も鳴かずば撃たれまいに、と思ったはずよ。どちらもピエロになって、醜いダンスを演じて見せた。タクトを振っているものがいる。それがハンナアーレントの言うように、陳腐な小市民のアドルフ・アイヒマンかもしれないね。地球温暖化に始まり、サステナブル、脱炭素、と魅力的なスローガンじゃないか。

すべては作り話やで。人を欺こうとするペテンやからさ、アホみたいに騙されているだけなのさ。とくに風力被害地では、人々はヒステリックになっているから、簡単に心理操作が行われる。水俣や福島で見たとおりだ。水銀汚染や放射能だけではない、人災としての社会管理が人々をロボトミーにしているのだ。だから政治は災厄でしかないと書いてきた。

これは日本特有の風土だね。あるいは世界政治の渦の中で、あの戦争の時と同じ策略に落とし込まれているのかもしれないけどね。リスクばかりで成果などどこにもない。ウソでした、とは誰も言葉にできないんだろうか。低周波測定器で観測すると、風車が回っている時と、止まっている時の差は40dbもある。対数表示だから10000倍のエネルギー変化だ。

1.2㎞離れた我家でも、30dbの差異で振動してる。人の耳には聞こえない。だから知らぬ間に風車病になって苦しむのだ。こんな所に住みたいか。ゾンビになって、私たちは風力発電には反対ではありません、というか。風力発電に「なぜ?」はないと書いてきた。各地の風力被害地で、なぜ誰も被害の苦しさを言葉にできないのか。

ヘンだと思いませんか。世界の風力反対運動が間違っているんだろうか。それさえも言葉にない日本人とは、いったいどうなっているんだろうと思うのだ。違う怪?